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民医連新聞

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原水爆禁止 2025年世界大会 長崎 語り部なき時代へ― 被爆者の声を私たちの声に

 被爆80年となる今年の原水爆禁止世界大会は、広島と長崎の両方で開催しました。被爆当事者から証言を聞くことはできなくなりつつある今、聞き手が語り手になることが求められています。核なき世界をめざす人びとの思いを、長崎で取材しました。(松本宣行記者)

13歳の少年は80年後も涙を流した

 8月7日、長崎市民会館で「被爆体験の継承と未来―被爆80年長崎のつどい」が開かれ、会場で2100人、オンラインで500人以上が参加しました。昨年にノーベル平和賞を受賞した、日本原水爆被害者団体協議会の代表委員、田中熙巳さんが被爆体験を語りました。
 田中さんは13歳の時に、長崎市中川町で被爆。1945年8月9日、空襲警報の解除を待って、自宅2階にいたところ、B29爆撃機ボックスカー号が飛来し、11時2分に原爆を投下。原爆の熱線で周りが真っ白になりました。田中さんが2階から駆け下りると、爆風が到達。田中さんの背中の上にガラス戸が倒れましたが、奇跡的に割れずに助かりました。爆心地付近の浦上に住む親族を捜索に行った田中さんは、地獄絵と化した街を歩きます。「浦上に入り、叔母は私の到着直前に亡くなったと聞いた」と語りました。時折、嗚咽をこらえながら話す田中さんの声は、聞く人びとの心に深く響く慟(どう)哭(こく)のように聞こえました。

被爆者援護施策を変えた原爆症認定訴訟

 1988年9月、被爆者援護施策を転換させた訴訟が提起されました。「長崎原爆松(まつ)谷(や)訴訟」です。この裁判をささえたのが、元民医連職員の牧山敬子さんです。
 松谷英子さんは3歳の時に、爆心地から約2・45kmで被爆。爆風で吹き飛ばされた屋根瓦が頭に直撃し、左後頭部頭蓋骨陥没骨折、一部欠損の重傷を負いました。救護所の処置は消毒液の塗布のみ。創部がふさがったのは、被爆から2年半後です。松谷さんは右半身麻痺などの重い障害を負いました。松谷さんは、この障害は原爆によるものだとして、原爆症の認定を申請しましたが、国は2度にわたって却下しました。
 「原爆被害に対する国の保障の実現をめざすため『長崎原爆』の名を冠した」と牧山さん。地裁・高裁で勝訴し、2000年7月18日、最高裁は国の上告を棄却。松谷さんの勝訴が確定しました。牧山さんは「このたたかいで結ばれた全国の支援者は、今でも核兵器廃絶でつながっている。1日も早く、核兵器のない世界を実現するために、力を合わせよう」と、その思いを未来へと託しました。

民医連職員がガイド 伝える平和の思い

 世界大会長崎の2日目、8月8日には、様ざまな分科会が開催されました。その中のひとつ、「動く分科会10 被爆遺構めぐり」には300人が参加。8人ごとに分かれた班のガイドを務めたのは、長崎・有料老人ホームポポロの森の金子将之さん(介護福祉士)です。
 金子さんは民医連に入職後、利用者から戦争や原爆の話を聞いてきました。しかし、利用者が亡くなっていくのを目の当たりにし、「証言を聞けなくなる」という危機感を抱きます。そこで被爆遺構のガイドを養成する、県連の平和学校に参加し、学びを深めました。その後、職員向けの平和学習などのガイドを経験し、今回の世界大会のガイドとしてのぞみました。
 爆心地に近い浦上天主堂では、原爆の爆風で破壊された鐘(しょう)楼(ろう)について解説。参加者は金子さんの話に真剣な面持ちで耳を傾けていました。

被爆者と認めない行政とのたたかい

 同日、長崎県総合福祉センターで、民医連参加者交流集会が開かれ、296人が参加しました。
 基調講演は長崎県保険医協会会長の本田孝也さん(医師)による「広島・長崎原爆の黒い雨―被爆者になれない被爆者たち―」です。本田さんは「被爆者援護を保険医協会と長崎民医連とともにすすめてきた」と切り出しました。
 広島は「黒い雨」訴訟で被ばく地域が拡大しましたが、長崎はそうではありません。長崎の被爆地域拡大運動に対し、国は1980年に「被ばく地域の指定は、科学的・合理的な根拠のある場合に限定して行うべきである」と主張。原爆の健康被害は精神的なものとこじつけ、爆心地から半径12km以内の被害者を「被爆者」ではなく「被爆体験者」としたのです。
 2007年に被爆体験者訴訟を提起しましたが、2012年に長崎地裁は放射性降下物を認めず、原告が全面敗訴します。しかし、被害状況を記したマンハッタン調査団最終報告書を分析した本田さんは「報告書には残留放射線の記録が残っている。東京電力福島第一原発事故と比較すると、居住制限区域と同レベルで汚染されていた」と、欺(ぎ)瞞(まん)を指摘します。
 2012年1月~2013年10月に、長崎民医連が被爆地域拡大証言調査を行い、被爆体験者訴訟の控訴審で、調査結果を準備書面に採用。しかし、福岡高裁は「聞き取り調査によるバイアスが介在している」として敗訴。最高裁に上告しましたが、2019年に敗訴しました。原告44人はあきらめずに再提訴しました。同時期、広島の「黒い雨」訴訟は原告が勝訴し、2022年に被爆者健康手帳の交付が始まります。
 本田さんは、日米共同運営の放射線影響研究所が、約1万3000人の「黒い雨」データを保有していたことをつきとめており「目撃情報、残留放射線という客観的証拠がある」と語気を強めます。
 2024年8月9日、被爆者は岸田首相(当時)と歴史的面談を実現後の9月9日、再提訴した長崎地裁でまさかの一部勝訴。長崎地裁は原告44人中、11人に被爆者健康手帳交付を命じました。しかし、国は控訴し、たたかいは続いています。

民主主義を守るため世界のびとと連携を

 同集会では、韓国代表団21人(薬剤師・薬学生13人、歯科医師4人、医師4人)が参加し、チョン・ギョンリムさん(健康社会のための薬剤師会代表)があいさつをしました。
 チョンさんは2019年に、初めて長崎を訪れ、被爆者の証言を聞き、胸がしめつけられ、平和への思いが強くなったと言います。
 韓国では昨年12月3日、民主主義と平和をくつがえす、戒厳令が発せられました。チョンさんは「私たちは恐怖の夜を過ごした」とふり返ります。いてつく路上で、平和を守るために集まった韓国市民のために、民医連は使い捨てカイロを届けました。「非民主的な暴力に立ち向かうための、連帯と応援のメッセージだった」とチョンさんは感謝をのべました。
 韓国は戒厳令下で捕まると、二度と戻れなかった時代を経験したため、互いの安否を確認する習慣が生まれました。チョンさんは「無事ですか?」と声をかけるべき人が世界にたくさんいると言います。被爆80年でもたたかい続けている被爆者と子孫たち、原発周辺の住民と原発労働者、そして人道支援さえ届かないパレスチナ・ガザをはじめとした暴力と抑圧に苦しめられる人たちのことです。「私たちが声をあげなければ、誤った政治や保健医療政策が、私たちの日常を脅かし平和から遠ざかる。核兵器、戦争、差別のない平等な社会に向けて、ともに現場から実践したい」と結びました。

核なき世界をめざして

 8月9日の世界大会は、会場に3200人、オンラインで700人以上が参加。各国の代表団が核兵器廃絶、連帯を呼びかけ、長崎決議の採決後、世界中の参加者がステージを埋め尽くして「We shall overcome」を合唱。盛大なフィナーレを迎えました。民医連関係者の声を紹介します。

 大阪医療事業協同組合の一井千代さん(事務)は、前日に分科会7「気候危機、エネルギーと原発」へ参加。内容に触発され「大阪でも学習会ができたら。プラスチックごみの減量を、薬品メーカーと協議したい」と、次への行動の意欲をしめしました。

 長崎大学医学部の山田早絵さん(5年)は「被爆遺構を見るたびに、原爆の熱線と爆風の威力を実感する。長崎の街は、いまだに原爆の犠牲者の骨が埋まっている。私たちはその上を歩いている。決して忘れてはいけない」と、決意を語りました。

 福岡・佐賀民医連の砂川絢音さん(事務)は、前日の分科会3「被ばく・核実験被害の実相普及、被爆者援護・連帯、核実験被害者の支援」に参加。18歳で被爆した人の体験談を聞き、現代のパレスチナ・ガザで、いのちの危機に直面している人びとを重ねました。また、被爆後に父が母へ暴力を振るうようになったという別の被爆者の話から、戦争が人を歪めてしまうという視点を、世界大会に参加したことで得ました。砂川さんは「人を憎むのではなく、戦争そのものを憎むと考えるようになった」と、大会をふり返りました。

長崎決議はこちらから

 

(民医連新聞 第1836号 2025年9月1日号)

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