• メールロゴ
  • Xロゴ
  • フェイスブックロゴ
  • YouTube
  • TikTok

民医連新聞

民医連新聞

第15回平和活動交流集会 被爆者として、人間として 核なき世界への連帯を 日本被団協 山田玲子さん

 全日本民医連は、9月20~21日に第15回平和活動交流集会を東京で開催しました。日本原水爆被害者団体協議会の中央相談所委員長をつとめる、被爆者の山田玲子さんが原爆被害の実相を語りました。概要を紹介します。(松本宣行記者)

 私は広島市西区己斐(こい)町で生まれ育ちました。爆心地から2・5kmの地域です。戦争が始まり、国民学校3年生ごろから食糧や物資が不足し、4年生になると空襲警報が鳴りはじめます。私は1945年8月9日に予定されていた、集団疎開に参加予定でした。

■ 閃光、爆風、黒い雨

 8月6日の朝、父は訓練で外出、姉は広島駅へ向かっていました。私は集団疎開前、学校で話を聞くため運動場へ行きました。
 男の子の「B29だ!」の声に空を見上げ、銀色に光る機体を見て「きれい」と思った瞬間、目の前が真っ白になりました。防空壕に向かって走りだすと、爆風が到達して、背中に熱い砂場の砂が吹きつけて、転倒しました。倒れてきた柳の木を払いのけ、防空壕へ走りました。やがて雨が降り、ずぶ濡れの私たちは凍え、身を寄せ合いました。己斐町は後に放射能雨の「黒い雨」地域に指定されています。

■ 地獄の道

 学校へ避難してくる人たちが見え、「街でなにかあった」と思いました。私は道に倒れている遺体を飛び越え、自宅へ走りました。
 自宅は瓦礫(がれき)と化していました。母と姉たちが瓦礫の下にいると思い、「おかあちゃん!」と泣き叫びました。母と再会し、抱き合って泣きました。その後、ガラス片を浴びた父が、血だらけで連れてこられました。父は建物の下から助け出されました。
 山の中の親戚の家に避難する道中、顔もわからないほどのやけどを負った人たちが、声もなく静かに、ぞろぞろと歩いていました。
 姉は広島駅で被爆し、首から背中にかけてやけどを負い、2日目に帰宅しました。薬はなく、母はキュウリで冷やそうとしましたが、キュウリはすぐに腐って異臭を放ち、ハエがたかりました。
 8月9日に学校のほうから黒い煙があがり、ひどい臭いがします。学校で遺体を焼いていました。名前を記録された人はおらず、残ったのは校長が記録した2300人という数字だけです。

■ 理不尽な仕打ち

 8月15日、私は集団疎開で田舎へ向かいました。疎開先で教師から「お前たちの努力が足りないから負けた」と説教されました。
 己斐に戻っても、食糧難は続きました。学校の運動場に植えたサツマイモを掘ると、人骨が出てきて、誰も食べられませんでした。
 父は原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission、通称ABCC)に何度も呼び出されました。父は頻回に貧血が起き、体内に残ったガラス片が出てきて出血していたのに、検査だけで治療されません。
 私たちは東京で被爆者団体をつくりましたが、差別を避けるため「東京の友」と書いて「東友会(とうゆうかい)」という名前で活動しました。

■ 国境を越えた対話

 核保有国の大使館を訪ね、核兵器廃絶を訴えました。その過程で、日本の加害を指摘され、事実と向き合う必要がありました。
 海外で証言する機会もありました。アメリカのフロリダで「あの戦争は日本が始めた」と言われ、肯定しました。すると相手は「あなたの話を聞いて、あのような爆弾は決して使ってはならないと思った」と言ってくれました。高校生から「アメリカは謝った?」と質問され、否定すると、高校生は泣いて謝ってくれました。
 原爆投下を命じたトルーマン大統領の孫、クリフトンさんと会い、彼は、被爆者の話を聞き、話し合いたいと言ってくれました。
 イギリスの牧師が「原爆被害者は平和の礎(いしずえ)」と言ったとき、私は「核兵器がなくなったときに初めて礎になる」と答えました。
 スコットランドの首相だったニコラ・スタージョンさんとも会い、ニコラさんは核兵器禁止条約の支持を表明しました。
 ノーベル平和賞の受賞はうれしかったけれど、まだまだと感じています。被爆者で話せる人は少なくなりました。核兵器がどれだけ人を殺し、苦しめているか。核兵器のない世界の実現のために、ともにがんばりましょう。

(民医連新聞 第1839号 2025年10月20日号)