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民医連新聞

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第47回定期総会記念講演 いのちの灯を未来へ 今、民医連の原点ふり返る必要 岩手民医連 元会長 小野寺けい子さん(医師)

 全日本民医連第47回定期総会初日の2月26日、岩手民医連元会長の小野寺けい子さん(医師)が、「岩手民医連の歩み 過去・現在そして未来へ」と題して記念講演を行いました。概要を紹介します。(松本宣行記者)

 岩手県は全国2位の広大な県土を持ち、山間部が多く、高齢化率も36%と全国平均を上まわっています。この地には、不当な課税に抗した南部藩最大の「三閉伊一揆」に象徴される、農民こそが国の基盤であるという思想が根付いています。また、女性団体を中心とした反対運動により、県内に原発がないことも特徴です。

■憲法25条を実現した村

 かつて乳児死亡率全国ワーストだった沢内村(現西和賀町)。1957年に就任した深沢晟雄村長は「健やかに生まれ、育ち、老いる」を掲げ、1960年に老人医療費無償化、翌年には乳幼児医療費無料化を断行。県から国民健康保険法違反と待ったがかかるなか、「憲法25条を実現するために制度をつくる。国は後からついてくる」といのちを守るためにたたかい、1962年に全国初の乳児死亡率ゼロを達成しました。
 この精神は、1987年の国の老人医療費無料化につながりました。その後、社会福祉制度の後退で村立病院の経営危機もありましたが、「村全体の収支で考えるべき」という住民の声が存続をささえました。現在は市町村合併で西和賀町となりましたが、いまも生命尊重の行政が続いています。
 岩手全体を見てもかつては、医療過疎でしたが、1930年代の産業組合による病院建設運動をへて、戦後は「県下にあまねく良質な医療の均霑を」の精神で県医療局が運営を引き継ぎました。1955年には全国に先駆けて国民健康保険を実施。現在は県内20病院の体制で、県立病院が一般病床の4割、外来の5割を担う公立主体の医療体制が築かれています。

■民主診療所の設立と弾圧

 1961年、全日本民医連の空白県克服方針を受け、岩手県でも設立論議が始まりました。1966年、「自らの健康は自らの手で守る」という精神のもと、約1500人の出資により倉庫を改修した盛岡民主診療所が誕生。初代所長は吉田久さん(医師)がつとめました。当初から経営は厳しく、職員は「目刺し1匹を3回のおかずにして食べる」と言うほど質素な生活を送りながら、地域住民の期待にこたえました。
 1968年に盛岡医療生活協同組合を設立しました。診療所は職業病対策の拠点となり、頸肩腕症候群や振動病の診療、高齢者健診に尽力。1973年には待望の入院施設、川久保病院を開設しました。病院は被爆者健診や訪問看護など、地域要求にこたえ、機能を充実させていきました。
 吉田さんの口ぐせは「困っている人がいたら、見て見ぬふりできねべ」です。吉田さんは300人超の振動病患者の労災認定にとりくみました。当局は1982年に労災指定の取り消しなどの弾圧を行いましたが、組合員と労働者の団結で守り抜きました。
 吉田さんは1984年に急逝。1994年には内科の中心人物だった平塚巌さん(医師)も急逝し、医師の退職で盛岡医療生協は存亡の危機に直面しましたが、北海道・東北地協からのべ200人の医師が支援に駆けつけてくれました。「経営改善は職場から」を掲げ、総合的な医療の発展をめざした結果、職員は大きな力を発揮。増資運動では「盛岡方式」と呼ばれ、3億円を達成しました。2006年に新川久保病院が完成し、夜間診療や無料低額診療事業など、地域における役割を明確にしていきました。

■震災と子ども医療費助成

 2011年の東日本大震災では、発災から1週間後、沿岸部の大船渡や陸前高田へむかい、仮設診療所や医療相談を実施。その後も仮設住宅への訪問活動を続け、県保険医協会と協力して運動を展開。10年間にわたり医療費一部負担金の免除を継続しました。
 また、深刻な子どもの貧困を背景に、2014年から子ども医療費助成の拡充運動を展開。署名は7万筆に達し、県議会での採択をへて、中学生まで実現しました。
 終の棲家を求める組合員の切実な願いを受け、草の根の運動で1億9000万円の寄付金を集めて、2018年には特別養護老人ホーム「はなみずき」を開設しました。
 いま、民医連は経営困難にあります。誰のために、なんのために民医連はあるのかという原点をふり返る必要があります。吉田さんの精神を胸に、憲法と民医連綱領を礎に、ともに未来を切りひらいていきましょう。

(民医連新聞 第1849号 2026年4月6日号)