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民医連新聞

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水俣病公式確認70年 行政が見捨てた声 民医連が寄り添う

 水俣病の公式確認から今年で70年。被害者たちの苦しみは終わっていません。「ボタンが留められない」と訴える患者の指先には、今もしびれが残ります。しかし、国・熊本県・加害企業チッソ(現JNC株式会社)は、被害者を切り捨て、法廷で怒声を浴びせるなか、熊本民医連の職員たちが現地で大規模な健康実態調査を実施。くらしの現場から、患者に寄り添う民医連の活動を報告します(『民医連医療』2026年6月号でも特集)。(松本宣行記者)

加害企業チッソ
弁護団に法廷で怒声

 現在も続くノーモア・ミナマタ第2次訴訟、水俣病患者と国会議員の意見交換会を取材しました。

 3月5日、東京地裁でノーモア・ミナマタ第2次訴訟の口頭弁論がありました。2014年8月に始まった東京訴訟から12年以上が経過し、裁判長の交代を受け、原告と被告の双方がこれまでの主張を、現在の裁判官たちにプレゼンテーションする日でした。
 原告側弁護団は、被告ら(国・熊本県・チッソ)は国・県が健康調査を実施すべき責務があった(ノーモア・ミナマタ第1次訴訟和解調書、特措法37条)のに現在までまったく実施していないことから、証明が困難と追及。特措法の対象地域外でもメチル水銀ばく露は起き、慢性水俣病の特徴は症状の経過が非常にゆるやかで、初期の急性発症に比べ症状が多彩であることや、疫学的な知見による因果関係、損害・被害、被告らの責任を主張してきたと、裁判官たちに訴えました。
 被告の国・県の指定代理人(検察官)は、原告らの訴える症状は国が定義する病像と当てはまらないと再主張しました。これは水俣病の病像を狭めることで、重症患者しか患者として認めないというものです。
 法廷ではチッソの弁護士のひとりが、裁判官たちにむけて「原告の訴訟は、すべて、即刻、棄却されるべきものということは明らか」と主張。審理が長期化しているのは、原告側による忌避(裁判官交代)が原因として「引き延ばしとしか考えられない」「遅延の原因は原告だ」と語気を強め、原告側弁護団をむいて「もう二度と和解はない」と怒声を浴びせました。こうした認定の壁と国・県・チッソの対応が、被害者救済を長年にわたり停滞させてきました。

1月の衆議院解散 新救済法案は停滞

 昨年6月、国の責任による水俣病被害者の全面救済にむけた「水俣病被害者救済新法」が超党派で衆議院に提出されました。現行法で不十分だった「国によるすべての被害者の救済」を盛り込み、水俣病被害の対象地域を明らかにし、年代や期限を設けず、申請があれば速やかに救済することを盛り込んでいました。しかし、今年1月の衆議院解散で廃案に。超党派の「水俣病被害者とともに歩む国会議員連絡会」(議連)の議員も大幅に減少し、新法は停滞した状態です。
 ノーモア・ミナマタ被害者・弁護団全国連絡会は、3月10~12日にかけて国会要請行動を行いました。最終日に議連と意見交換会があり、15人の国会議員が参加。日本共産党の参議院議員、白川容子さんは「山間部に生まれた人は、行商で流通した魚を食べたと証明できず、水俣病の認定にいたらない。新法を成立させ、救済が必要」と決意をのべました。
 水俣病不知火患者会の会長の岩崎明男さんは、2月に東京民医連の奨学生と懇談し、学生からの「知りませんでした」「協力します」「100歳、120歳まで生きてください」という言葉に「あんなにやさしい言葉をかけてもらったのは初めて」と、涙を流したと語りました。


臨床の現場から放置された重症患者

 56年にわたり、水俣で患者を診つづけてきた、熊本・水俣協立病院名誉院長・水俣協立クリニックの藤野糺(ただし)さん(医師)に、水俣病が公害病認定されたころの状況を聞きました。

 藤野さんは「1968年9月に国がチッソによる公害病と認めるまで、水俣病患者は白眼視され、水俣病という言葉がつかえないくらいだった」とふりかえります。
 藤野さんが水俣病患者を初めて診察したのは1970年3月のことです。当時のノートには「水俣病患者の症状は多彩である」と記されています。当時の認定患者は116人でしたが、藤野さんが現場に入って驚いたのは、急性劇症の患者が多かった時代と同様の患者が、どこの地区にもたくさんいたことです。
 公式確認1号・2号の患者の家から、50mと離れていない場所に住んでいた、未認定の患者が忘れられないと藤野さんは言います。
 「寝たきりで立てず、歩くことも話すこともできず、大声で話しかけてもよくわからず、知覚検査の針を強く押し付けても痛みの反応がない」
 藤野さんは「水俣は医学的にあらゆる病気が多い。次世代、次々世代にも影響しているのではないか」と警鐘を鳴らします。水俣を中心とした不知火海沿岸の住民はメチル水銀のばく露を受けています。藤野さんは「課題をもって、水俣に来て学んでほしい」と結びました。


「ボタンが留められない」
水俣市民の健康実態調査を実施
熊本民医連など

 現地の熊本では、くまもと自治体問題研究会と熊本民医連が4月25日~6月21日まで計8回、共同組織を対象に「水俣市民の健康・生活・まちづくりに関する実態調査」を実施中です。調査員の多くは熊本民医連の職員です。現在まで76人を訪問し、調査に参加した職員はのべ77人(5月11日現在)。いまだに解決しない水俣病の被害を追いました。

 調査に協力してくれた濱付厚子さんは、愛知県の出身ですが、16歳だった1970年から頻回に水俣を訪れ、1973年から水俣でくらすようになり、1994年まで漁業に従事していました。濱付さんは、水俣病の主要な症状はすべてあると訴えます。末梢のしびれの影響で、服のボタンが留めにくいため、ボタンのある服を着ないようにしていると言います。水俣病に治療方法はなく、対症療法になり、濱付さんの薬代は年間20数万円にのぼります。

先入観、偏見持たず一人ひとりに寄り添って

 「水俣病の患者はお金を持っていると思われている。そんなことはない。見舞金や賠償金を受け取っていたとしても、今、そんなにあるわけがない」と根深い偏見をこぼしました。
 濱付さんは70年代の食事内容を「漁業だったから魚ばかり食べていた。肉はお盆と正月くらい」とふり返ります。魚介類の流通事情について「私たちが水揚げした魚は、野菜や飲料などと物々交換したときもあった。その魚を行商している人たちもいた」と調査に答えました。
 水俣病の症状があっても、医師が水俣病と診断しても、国・県・チッソは容易に水俣病とは認めません。認定裁判では数十年前に魚を食べた物証を要求します。証言のように、物々交換に領収書は発生しませんし、行商人から魚を購入したときに、領収書が発行されたとは考えにくいのが実情ですが、国などはこれを無視し続けています。
 チッソ水俣工場がメチル水銀を含む排水を止めたのは1968年です。1970年代、生物濃縮で水俣湾の魚には数十ppmの高濃度の水銀が蓄積していました。汚染された水俣湾のしゅんせつと埋め立てが始まったのは1977年ですが、約150トンの水銀が堆積していたといわれています。熊本県知事による安全宣言は1997年です。濱付さんの居住歴、食生活から、汚染魚介類を摂取していたと考えられます。
 水俣病の患者は水俣市内だけでなく全国にいます。濱付さんに医療・介護従事者へのメッセージを問うと「水俣病に先入観や偏見を持たないでほしい。一人ひとりの患者に寄り添ってほしい」と答えてくれました。

次世代への期待すべての患者救済を

 調査に参加した水俣協立病院の棚橋純子さん(看護師)は「役職者だけでなく、若手職員も調査に参加を」と呼びかけます。熊本民医連の佐藤淳さん(事務)は「患者ごとに異なる視点を、医学生に伝えたい」と語りました。
 水俣協立病院の元職員で水俣市議会議員の平岡朱さんも調査に参加しました。平岡さんは「水俣の住民はなにかしら症状がある。子どものころ、大人になると水俣病になると思っていた。周りの大人が全員そうだったから」とふり返り「住民の健康調査は行政が担うべきだ」と強く訴えました。
 行政による救済がすすまないなか、民医連は現場から患者に寄り添うとりくみを続けています。水俣病は過去の公害ではなく、現在進行形の人権問題です。


水俣病とは

 熊本県水俣市のチッソ水俣工場が、メチル水銀を含む排水を水俣湾に流し、汚染された魚介類を摂取したことで起きた公害病です。メチル水銀は主に脳細胞に作用し、様ざまな障害が生じます。発生当初は、発症から数週間で亡くなる重症患者が多数いました。現在、水俣病と診断される患者の多くは、四肢末梢優位(手袋靴下型)のしびれ、痛覚の麻痺、視野・言語・聴覚障害、手足がつる、激しい頭痛などに長年苦しんでいます。これらは治療法が確立されておらず、ADLに大きな支障をきたしています。また、感覚の鈍さは、怪我ややけどの未発見にもつながるため、細やかな介助が欠かせません。
 1950年ごろから、水俣湾沿岸で奇病として地元で怖れられ、1956年5月1日、原因不明の中枢神経疾患の発生が水俣保健所に届けられたことで、水俣病が公式確認されました。メチル水銀汚染は、広域の住民、妊娠中の胎児に被害を与えました。胎児性水俣病患者は高齢化しつつあり、介護を必要としています。

(民医連新聞 第1852号 2026年5月18日号)