いつでも元気

2010年8月1日

特集1 いまも生き続ける“核密約” 核持ち込みを裏付ける記録も 国際問題研究者・新原昭治さん

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新原昭治(にいはら・しょうじ)さん
国際問題研究者。1931年福岡生まれ。1954年九州大学文学部卒業。元長崎放送記者、元日本共産党国際委員会責任者。現在、日本原水協専門委員など。
日米密約問題研究の第一人者。主著に『あばかれた核密約』『冷戦は終わったか』(いずれも新日本出版社)など。

 日本政府がアメリカに核兵器持ち込みを認めていた、核密約問題。密約調査を公約に掲げて誕生した新政権は「日米密約に関する有識者委員会」を設置し、ことし三月、核密約をふくむ四つの密約について調査結果を発表、「核密約を認めた」と報道されました。
 ところがその報告書には、核密約の文書「討論記録」を「証拠と見るのは難しい」、核持ち込みの「明確な合意はなかった」とあるのです。どういうこと?  アメリカの公文書館を何度も訪れ、日米密約問題の新事実をつきとめてきた国際問題研究者の新原昭治さんにききました。

 日本政府は「核兵器を持ち込ませない」という一方、国民に隠れて核兵器持ち込みをアメリカに認めていた。これが核密約です。
 代表的なものが一九六〇年の日米安全保障条約(安保条約)改定時にアメリカのマッカーサー駐日大使と日本の藤山愛一郎外相が調印した「討論記録」という 名の密約です。一九五九年に文書にまとめられ、一九六〇年一月六日に調印されましたが公表されず、一九九九年になって米解禁文書からわかりはじめました。 日本共産党も二〇〇〇年に米解禁文書からコピー(資料1)を見つけ、国会でくりかえし追及しました。
 有識者委員会も今回、この核密約を調査対象としました。ところが有識者委員会は「討論記録」という名の秘密文書を日米間の公文書と認めながら、”核搭載 艦船の日本寄港に関する証拠と見るのは難しい”と判断しました。つまり日米はお互いに問題を深追いせず、「暗黙の合意」という形での広い意味の密約はあっ たようだとしながら、核密約を交わしたと認定しなかったのです。

資料1 日米核密約「討論記録」

1、(日米安保)条約第6条の実施に関する交換公文案に言及された。その実効的内容は、次の通りである。
「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更ならびに日本国からおこなわれる戦闘作戦行動(前記の条約第5条の規定 にもとづいておこなわれるものを除く)のための基地としての日本国内の施設および区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする」

2、同交換公文は、以下の諸点を考慮に入れ、かつ了解して作成された。
A 「装備における重要な変更」は、核兵器および中・長距離ミサイルの日本への持ち込み(イントロダクション)ならびにそれらの兵器のための基地の建設を 意味するものと解釈されるが、たとえば、核物質部分をつけていない短距離ミサイルを含む非核兵器(ノン・ニュクリア・ウェポンズ)の持ち込みは、それに当 たらない。
B 「条約第5条の規定にもとづいておこなわれるものを除く戦闘作戦行動」は、日本国以外の地域にたいして日本国から起こされる戦闘作戦行動を意味するものと解される。
C 「事前協議」は、合衆国軍隊とその装備の日本への配置、合衆国軍用機の飛来(エントリー)、合衆国艦船の日本領海や港湾への立ち入り(エントリー)に 関する現行の手続きに影響を与えるものとは解されない。合衆国軍隊の日本への配置における重要な変更の場合を除く。
D 交換公文のいかなる内容も、合衆国軍隊の部隊とその装備の日本からの移動(トランスファー)に関し、「事前協議」を必要とするとは解釈されない。


【編集部注】「討論記録」という名前になったのは、万が一この文書が明るみに出ても
密約ではないと言い逃れるためで、日本側の要望だったことがわかっている。

 

「討論記録」は核密約そのもの

 しかしこれはどうみても核密約そのものです。1項に「交換公文」とありますね。交換公文とは、 当時の岸信介首相とハーター米国務長官が交わした日米安保条約第六条(米軍の基地使用)に付属する約束のことです。米軍が日本で配置や装備の「重要な変 更」をおこなったり、日本から戦闘におもむく時は日本政府と事前に協議すると新しく決めた。当時米軍は日本に相談せず自由に基地を使っていましたが、「事 前協議」制度がつくられたので、日米が対等になったと大宣伝されました。

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米解禁文書から見つかった「討論記録」のコピー

 ところが2項で“交換公文は、以下の諸点を考慮に入れた”とあり、2項Cで“米軍や装備の配置、米軍機の飛来、米艦船の日本領海や港湾への立ち入りに関 する現行の手続きには影響をあたえない”と書いている。つまり交換公文で取り決めた事前協議はこれらの行動には必要ない、軍用機も艦船も核兵器を積んでい ようと積んでいまいと自由に日本に立ち寄ってよいという秘密の約束をしていた。「日米対等」は大ウソだったのです。
 核密約を結んだ当時の外務省の官僚のトップ、外務次官・山田久就さんも、後に「核搭載艦船は事前協議の対象」という政府の国会での言い分は、「国会での 野党の追及を恐れる取り繕いにすぎなかった」と述べています。昨年には外務次官経験者らがこの密約文書そのものを外務省で保管してきたことを証言しまし た。
 私もアメリカの国立公文書館で、密約に署名したマッカーサー大使の重要な電報を見つけました。安保条約改定交渉の初日、同大使が日本側に“核兵器が積ま れた米軍艦でも日本の領海・港湾への立ち入りを従来通り続ける”と述べたことを報告した極秘電報です(資料2)。
 有識者委員会はこうした重要な証言・証拠をまったく無視したのです。

資料2 核持ち込みの意向を伝えたことを示す電報

東京米大使館発→マニラ米大使館あて「極秘」電報
(1958年10月22日、マニラのボーレン大使あて)

 …〔事前〕協議方式(…)は、10月4日の〔日米安保条約改定〕交渉の最初の会合 で、一括提案の一部として私〔マッカーサー大使〕によって岸〔首相〕と藤山〔外相〕に提示された。一括提案に含まれているものは、条約案、〔事前〕協議方 式、この〔協議〕方式についてのわれわれの解釈の説明である。
 説明は、国務省・国防総省共同の交渉訓令に従って行われた。訓令は次のようなものであった。
 “適切な時点で米軍とその装備の日本への配置の協議に関する日本側の要請に応じるため、われわれの方式を持ち出して合意を追求すること。交渉の過程で は、以下の諸点についてわれわれの理解への確認を求めること。
 (A)米軍とその装備の日本への配置は核兵器にのみ当てはまること、(B)核兵器を積載している米軍艦の日本の領海と港湾への立ち入りの問題は従来通り続けられ、〔事前〕協議方式の対象にはならない”
 私は、岸と藤山にどのようにして合意した解釈を最もよく記録に残せるかについて彼らの考えを尋ねた。(略)

マッカーサー

 

核密約認めない日本政府

 なぜ核密約を密約と認めないのか。日米安保体制を傷つけたくないからでしょう。普天間基地問題で、政府が「米軍は抑止力」と繰り返しているのと同じです。
 政府は有識者委員会の座長に北岡伸一さんを任命しました。小泉内閣の外務省の諮問機関の座長をつとめ、艦船による核兵器持ち込みは認めよという「非核二・五原則」を提言した人です。報告書の結論が歪むのは当然です。
 政府が密約の今後について何も触れていないのも重大な手落ちです。密約であっても、国と国の取り決めは破棄しない限り生き続ける。これが国際法の常識で す。「密約をやめる」とアメリカに通告すべきです。昨年春、麻生内閣はアメリカに「潜水艦用の核巡航ミサイル(トマホーク)を退役させる場合は、事前に日 本政府に相談を」とひそかに申し入れていました。いまも米軍が日本に核巡航ミサイルを持ち込む態勢がとられ続けているということです。岡田克也外相はこれ に目をつぶり、「アメリカが水上艦への核配備をやめたといっている九一年以降は日本への核持ち込みはないはず」と、根拠のないことをいうだけです。

“対等な日米関係”の演出の裏で核密約は結ばれていた

核持ち込みの証拠はたくさんある

 これまで日本に核兵器が持ち込まれた証拠や裏づけが、数多くあります。
 たとえば山口県の米軍岩国基地に核兵器が持ち込まれていました。核爆弾の組み立てを任務にする部隊も常駐していました。一九七九年にこの基地の核兵器要 員一七二人分の名簿が見つかり、核爆弾組み立て専門部隊の三七人全員が核兵器を直接さわる資格をあたえられていた事実もわかったのです。
 わが国最大の核兵器基地として重大な役割を担わされたのが沖縄です。一九七二年に沖縄が返還されるまで、沖縄は世界最大の核兵器基地にされました。米解 禁文書によれば、一九種類もの核兵器が持ち込まれていた。広島原爆の数百倍もの爆発力を持つ水爆や、小型の核地雷もありました。核地雷はベトナム戦争中、 使用が検討されました。六〇年代、米兵が模擬核地雷を背負って読谷村でパラシュート降下訓練をした記録があります。
 沖縄返還の際、沖縄から核兵器は持ち去られたとみられます。しかし沖縄返還後もふたたび核兵器を持ち込み貯蔵する権利をアメリカに認めた密約が交わされ ました(佐藤・ニクソン密約)。有識者委員会はこの密約も「外務省は知らなかったので密約ではない」と言い張っていますが、復帰後の一九七五年に沖縄の嘉 手納基地に核爆弾が持ち込まれたことを裏づける米軍内部文書が見つかっています。

密約は「基地権」保障のため

 なぜ核密約が結ばれたのか。それはアメリカが核兵器を使用する準備として、日本に核兵器を持ち込み、その根拠地にする――ここに核密約のほんとうの狙いがあったのです。背景に、わが国におけるアメリカの基地特権があります。
 日本は第二次世界大戦で敗戦し、連合国軍(米軍)の占領下にたくさんの基地がつくられました。しかし占領が一九五二年に終了した後も、米軍は基地を使う特権を手放しませんでした。
 一九六〇年に安保条約が改定された背景には、こうした対米従属に対する国民の批判の高まりがありました。岸内閣は「独立の日本にふさわしい対等な安保条 約」にすると称して、事前協議制度をつくったのです。しかしアメリカは核兵器を使える態勢をとり、核持ち込みをそれまで通り続けたかった。これに追随し、 その「権利」を保障したのが核密約です。
 安保条約改定と同時に核密約を結んだ岸首相は、第二次世界大戦中は戦争政策遂行の先頭に立った大臣だったため、敗戦後はA級戦犯容疑者として拘束されま した。しかしアメリカが「冷戦」政策をすすめるために、日本を一大軍事拠点にする政策へと転換した中で彼は釈放され、やがて首相になりました。その背後に アメリカ政府の秘密資金などの支えがあったことは公然の秘密です。

米軍に従属する自衛隊

 日米間の密約は、他にもあります。たとえば「有事」に米軍と合同司令部をつくり、米軍司令官の指揮のもとに自衛隊が行動するという密約です。一九五四年の密約が米解禁文書でわかっていますが、いまも生きていると見られます。
 米兵犯罪の裁判権を放棄する密約もあります。表向きは日本国内の米兵犯罪は「公務外」であれば日本が第一次裁判権を持つと決められています。しかしこの 規定を骨抜きにする密約が一九五三年に結ばれ、いまも続いています。沖縄や横須賀をはじめ、全国の米軍基地周辺で米兵犯罪がしばしば発生していますが、こ の密約が被害者を泣き寝入りさせる重大な原因となっています。
 日本に米兵犯罪を裁かせないため、驚くべき複雑なしくみがつくられています。たとえば殺人など重大な事件であっても、事件から二〇日以内に「日本が裁く」と米軍に通告しなければ、日本の裁判権は消えてしまうのです。
 その結果、日本では日本に第一次裁判権がある「公務外」の米兵犯罪についても、七割~九割もの事件について日本側が裁判権を放棄したというアメリカの統計があります(表)。

表 米兵犯罪にかかわる裁判権をこんなに放棄

─日本とイギリスの比較

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独立は国際社会の出発点

 日本は六五年前まで、侵略戦争に反対すれば死刑を覚悟しなければならない時代が続きました。しかしいまは違います。世界に目を向けてもアジア、アフリカ、ラテンアメリカの大部分が植民地でしたが、それは過去の話になりました。
 世界は大きく変わっています。核密約をなくし、日本をアメリカの戦争基地から脱け出させることは簡単ではないでしょうが、六五年前までの世界に比べれば ずっとやさしい仕事になっています。大切なのはみんなが問題を知り、関心を持ち、そして話し合うことです。
 国の独立は国際社会を成り立たせる出発点であり、各国民の尊厳の源です。侵略戦争を許さないということは世界の流れです。このような時代に、なぜ日本は いつまでもアメリカに従属しなければならないのか。この点を私たちは正面から問題にする必要があります。
 普天間基地問題でも県内に米軍基地はいらないという声が保守革新を問わず、沖縄の圧倒的な世論になりました。五月末に沖縄で毎日新聞・琉球新報がおこ なった合同調査では、安保条約を続けるべきだという意見はたった七%でした。
 密約は国民主権の憲法を踏みにじるものです。アメリカの戦争基地にされ続ける日本であってはなりません。ことしは安保改定五〇年。どうすれば平和が実現 するのか。日本を戦争の踏み台や共犯者にさせないために、いのちを大切にする民医連と共同組織のみなさんにぜひ考えてほしいと思います。

いつでも元気 2010.8 No.226

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