いつでも元気
2015年2月2日
元気スペシャル 水俣病は終わっていない 新たに428人に症状認められる 水俣病大検診 フォトジャーナリスト・野田雅也
水俣病の公式確認から五八年が過ぎた昨年一一月二二~二三日、不知火海(八代海)沿岸の熊本県水俣市と天草市、鹿児島県出水市の計四会場で、全日本民医連は「水俣病大検診」をおこなった。医師一
二〇人をはじめ、職員四五〇人近くが検診にあたり、四四七人が受診。九割を超える四二八人に水俣病の症状が認められた。
「まさか自分が…」
「生まれも育ちも天草で、水俣じゃなかとですよ。水俣病の(公害)指定地域外やけん、他人事と思うとった」
不知火海を挟んで水俣市の対岸に位置する天草市新和町のTさん(72)は、初めての受診に、「まさか自分が…」と戸惑いながらも、気持ちの整理がついたように納得した。ふくらはぎに「からす曲がり(こむらがえり)」が起き、突然の痛みに襲われる。手が激しく震えて抑えがきかずに物を落とす。隣に座る人が手を挙げたのに、視界に入らない。病名さえ分からない症状に、Tさんはずっと悩まされてきた。
「甘いか、塩辛いか、食べ物の味も感じらんとです。妻に料理の味を聞かれても、いつも『ちょうど良かよ』と言い続け、そういうもんだと思うてきたとです」
水俣病と気づかぬまま
谷川智行医師(東京・中野共立病院)は、筆やコンパス状の針でTさんの手足の先に当て、感覚障害を調べた。試しに、私の指先に刺すと、瞬時に痛みを感じる。しかしTさんには、“何かが触れている”程度にしか感覚がない。検診では床の上に引かれた白線に沿ってまっすぐ歩くようにうながされたが、ふらふらとして、両脇を支えられながら足を前に出すのがやっとだった。
「小さい頃から、両親は不知火の海に網ば入れよったです。一日三食、持ち帰った魚ばおかずに、魚ば食べよった。農家から米やお芋さんを魚と交換してもろうたりした」
水俣病の発生が確認された後も、Tさん一家は「他に食べるもんはなか」と不知火海で採れたイワシ、アジ、タチウオなどの魚介類を食べ続けた。
水俣病の症状は、狂騒状態で死に至る劇症だけでなく、メチル水銀の摂取量によっては軽症で慢性型の場合もある。特徴的な症状として、手足の末端感覚が麻痺する「感覚障害」、視野が狭くなる「視野狭窄」、言語や歩行障害などの「運動失調」、「聴力障害」がある。加齢による体力低下で症状が悪化することもあり、水俣病の症状とは気づかない患者も多い。
メチル水銀を含んだ魚を多食し、感覚障害や視野狭窄、味覚障害もあるTさんを、谷川医師は「典型的な症状」と診断してこう続けた。
「どれだけの患者が埋もれ、救済されずに見放されているのか。症状の基礎情報さえ十分に知らされていない。潜在的被害者を掘り起こすためにも大検診が必要なのです」
線引きされる被害者たち
国や加害企業のチッソは、被害に十分に向き合ってこなかった。そのため国や県、加害企業の法的責任と損害賠償を求めて、被害者たちは訴訟を繰り返してきた。被害者救済を拒む国に対し、「水俣病不知火患者会」などの被害者団体を結成し、二〇〇四年の最高裁判決や「ノーモア・ミナマタ訴訟」での和解(二〇一一年)により補償を実現してきた。
国は水俣病問題の最終解決を図るために、水俣病特措法を二〇〇九年に成立させ、「あたう限りの救済」を約束した。全国で約六万五〇〇〇人が救済申請し、四万人近くが対象とされた意義は大きい。しかし環境調査や健康調査さえおこなわれずに「しびれのある症状」「居住地域」「出生年代」で救済対象を線引きした。そのうえ特措法の成立からわずか二年余りの二〇一二年七月末で、申請受付を締め切り、救済の窓口を閉じてしまった。国が示した最終解決とは、できるだけ多くの人を救うどころか、水俣病問題の強引な幕引きだった。
不知火患者会は、取り残された被害者たちと「ノーモア・ミナマタ第二次訴訟」を起こした。今回の大検診は、潜在的被害者の掘り起こしと、訴訟のための「共通診断書」作成がおもな目的だ。新たに水俣病の症状が認められた四二八人のうち、特措法の対象地域外の人はTさんを含めて二八九人にのぼった。
「天草の漁師は、水俣の漁師と同じ不知火海の漁場で魚介類を採っていました。魚は海を回遊するし、『居住地域』では線引きできません」と熊本県民医連の積豪英会長(天草ふれあいクリニック所長)は指摘する。当時は行商人が魚を山間部にまで売り歩いたこともあり、広範囲に被害は広まった。その後、集団就職などで県外へ移り住んだ人も少なくない。
特措法では「出生年代」を、チッソが水銀排出を止めた翌年の一九六九年(昭和44)一二月生まれまでと制限している。積会長は「根拠のない線引きが水銀被害の実態解明と救済を阻んできた」と言う。
「今回の検診でも一九六九年以降に魚を食べ、水俣病の症状が認められた患者さんがいました。排水を止めてわずか一年で、海の水銀汚染が消えたとは証明できていません」
救済の対象外であっても被害を訴える患者は、いまも後を絶たない。
「水俣病だと言えなかった」
天草市姫戸町で生まれ育ったAさん(74)は、水俣病が確認された一九五六年から小型運搬船でチッソ水俣工場へ化学製品を運ぶ仕事を始めた。荷揚げの順番待ちのため、水俣湾の工場搬入口付近に船を停泊させ、三~四日は海上で待機する。
「真水は貴重やけん、海の水で米ば洗いよった。工場の排水管そばで米ば研ぎ、 魚ば釣って食べた。チッソに飯ば喰わせてもらいよったけん、何も言えんでしょうが」
Aさんが検診を受けたのは、今回が初めて。工事現場での作業中、足を大けがしても、自分で気づかないほど足の感覚に障害がある。からす曲がりにも悩まされる。対象地域外の姫戸町でも、水俣病への偏見が強いため、近隣に知られないよう痛みを我慢していた。
「公害ちゅうのは、国も会社も被害を小さく見せようとする。当事者が死ぬまで終わらんですよ。大検診でみんなが集まって声ばあげれば、何とかなるかもしれん」
社会構造が被害を増大させる
水俣病患者に寄り添い続ける水俣協立病院の板井八重子元院長(現くすのきクリニック所長)は、「社会的差別を恐れて救済を求めにくい状況だったが、近年は声をあげやすくなった」と言う。
板井医師は、有機水銀が胎児にあたえる影響などを調査してきたが、水俣病訴訟の裁判資料を読み込むなかで、あることに気づく。チッソ水俣工場で生産されるアセトアルデヒドの製造過程で有機水銀が発生することは、当時から国内外の化学工業界では常識だったということだ。ところがチッソは、一九六九年の熊本第一次訴訟から、「メチル水銀の副生や廃液による健康被害は予見不可能であり、過失責任はない」とうそぶいていた。 「一九五六年に水俣病が公式確認された後、チッソはアセトアルデヒドの生産を増産しています。つまり知っていながら、より多くの水銀を流したのです」
工業の発展という大義のもとに、多少の犠牲はやむを得ないと免罪する社会構造が、水俣病という公害を引き起こし、被害者を増大させた。「犠牲の構造がある限り、(原発事故が起きた)福島でも他の地域でも、同じことが繰り返されるでしょう」と板井医師。
水俣市から南へわずか五〇キロ地点に、鹿児島県の川内原発がある。安全性が疑問視されるが、経済を最優先させるために再稼働される。水俣病の教訓が活かされることを望む。
いつでも元気 2015.02 No.280
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