MIN-IRENトピックス

2016年2月29日

太平洋核実験から70年(上) ビキニ周辺で67回の核実験 日本船992隻が被災

 一九四六年~一九五八年まで、アメリカは太平洋で核実験を実施。一九五四年、第五福竜丸をはじめ日本の多くの漁船が被ばくするビキニ事件が起こりました。今年、開館四〇年をむかえる第五福竜丸展示館の市田真理さん(学芸員)に、核実験の被害、ビキニ事件について寄せていただきました。(全二回)

ビキニ環礁。濃い青の部分は水爆ブラボーが珊瑚礁をえぐり取った動かぬ証拠だ(撮影・豊﨑博光)

ビキニ環礁。濃い青の部分は水爆ブラボーが珊瑚礁をえぐり取った動かぬ証拠だ(撮影・豊﨑博光)

 一九四六年三月七日木曜朝。広島に原爆が落とされてからわずか七カ月後のこの日、米海軍の大型上陸用舟艇がマーシャル諸島ビキニ環礁の住民一六七人を乗せてビキニ島を離れました。核実験場に選ばれた故郷から強制的に移住させられたのです。
 同年七月一日、B29爆撃機から原爆エイブルがビキニ環礁の内海(ラグーン)に投下されました。次いで二四日には原爆ベイカーの水中爆発実験がおこなわれ、ビキニ環礁全域が高レベルの放射能により汚染されたのです。この「クロスローズ作戦」に参加した多くの兵士も被ばく。一九四八年からはエニウェトク環礁も実験場にされ、この二つの環礁で一九五八年八月までに六七回の核実験が繰り返されました。

3月1日 死の灰が降る

 再び実験場となったビキニ環礁で一九五四年三月一日、「キャッスル作戦」による最初の水爆ブラボーが爆発。一六〇キロメートル東方で操業していた漁船・第五福竜丸の乗組員たちは水平線の彼方が光るのを目撃しました。夜明け前の闇が赤い光で覆われ、光から八分後、今度は足元からつぎあげるような轟音が響きました。
 漁労長の指示で、仕掛けたばかりの延縄を引き揚げながら、船はビキニ環礁から遠ざかります。ところが雲のかたまりが追いかけてきて、空を覆いました。やがて降ってきた雨には、白い灰のようなものが混じり、目にも耳にもシャツの中にも容赦なく入り込む。灰は甲板に足跡がつくほど降り積もりました。これがのちに「死の灰」とよばれる放射性降下物(フォールアウト)だったのです。
 広島型原爆の一〇〇〇倍の爆発威力をもつ水爆ブラボーは大量の死の灰を撒き散らし、周辺の環礁や海を汚染しました。爆発で吹き上げられた死の灰は風にのって拡散し、成層圏に達し、やがて雨に混じって世界中に降りました。

 太平洋で放射能汚染魚が漁獲された位置の分布(1954年3月~8月末) ●は、放射能汚染魚がとれた場所。ただし日本の漁港に水揚げされ検査された魚だけなので実際の汚染魚分布はさらに広いものと考えられる。(出典『ビキニ水爆被災事件と被ばく漁船60年の記録 第五福竜丸は航海中』公益財団法人第五福竜丸平和協会編)。赤字は編集部 ビキニ環礁。濃い青の部分は水爆ブラボーが珊瑚礁をえぐり取った動かぬ証拠だ(撮影・豊﨑博光)

太平洋で放射能汚染魚が漁獲された位置の分布(1954年3月~8月末)
●は、放射能汚染魚がとれた場所。ただし日本の漁港に水揚げされ検査された魚だけなので実際の汚染魚分布はさらに広いものと考えられる。(出典『ビキニ水爆被災事件と被ばく漁船60年の記録 第五福竜丸は航海中』公益財団法人第五福竜丸平和協会編)。赤字は編集部

 

23人の乗組員は

 第五福竜丸の乗組員たちは、死の灰を浴びたその日のうちに食欲不振や倦怠感にみまわれ、数日後には死の灰が付着した部分の皮膚がβ線火傷()、一週間後には脱毛症状があらわれました。しかし本人たちは気味が悪いだけで自分の身に何が起きているかわからないまま、三月一四日に静岡県焼津港に帰港します。第五福竜丸の被災が「事件」になるのは、一六日の読売新聞朝刊で報じられてからでした。
 この第一報を受け、全日本民医連や新日本医師協会などが現地調査を実施します。五感でとらえることのできない放射能汚染は漁業従事者のみならず、市場関係者、流通業界、飲食店、庶民の食卓を不安に巻き込んだのです。
 漁獲したマグロの検査は塩釜、築地、三崎、清水、焼津の政府指定五港のほか、大阪、神戸、田辺、串本、勝浦、徳島、高知、室戸、室戸岬、長崎、鹿児島、枕崎でおこなわれました。この年の暮れまでに少なくとも八五六隻の漁船が放射能汚染魚を獲ったことがわかっており、さらに商船や貨物船も死の灰の影響を受け、被災船は九九二隻にのぼると言われます。

注)放射線による皮膚損傷

久保山愛吉さんの死

 第五福竜丸乗組員は、個人差はあるものの、二〇〇〇~三〇〇〇ミリシーベルトの外部被ばくをしたと考えられ、血液や尿などからも放射能を検出、白血球、骨髄細胞減少などの症状があらわれました。被ばくから半年後、久保山愛吉さんの容態が悪化し、九月二三日に亡くなりました。 「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という言葉を残して。
 一九五四年一二月末、魚の検査は打ち切られ、米日政府間交渉による見舞金支払いで事件は幕引きされ、被害を受けた漁業者もやがて沈黙していきます。翌年五月、二二人は全員退院しますが、全快したわけではありませんでした。
 語られることのないまま、全国の多くの漁師たちの苦しみはその後も続きました。死の灰を生み出す核実験もさらに続きました。

(次号へ続く)

いつでも元気 2016.3 No.293

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