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2016年3月31日

太平洋核実験から70年(下) 高知県が健康相談会を開催 ビキニ事件の全容解明を 都立第五福竜丸展示館学芸員 市田真理

船員手帳の記録(元船員提供)

船員手帳の記録(元船員提供)

 アメリカが太平洋でおこなった核実験によって、日本の漁船は死の灰(放射性降下物)を浴び、被ばくしました。帰港した船体から次つぎに放射能が検出されたために、四八五トンものマグロが廃棄させられ市場は混乱。さらに危険区域を回避して操業しなくてはならないことも重なり、船主の損失は多大に。水産加工業や流通、小売など、あらゆる水産業界が影響を受けました。
 一九五四年一二月末、アメリカ政府は二四億円とも言われる損害に対して七億二〇〇〇万円の「見舞金」を日本政府に支払うことで、事件の幕引きを図ります。日本政府は漁船のべ九九二隻に「補償金」を配分したものの、乗組員に対する被害補償はしなかったため、「損失や健康被害を訴えたところで補償は受けられない」「被ばくを理由にいわれなき差別を受けるかもしれない」と、多くの関係者が沈黙していったのです。

高校生が聞き取り調査

 アメリカの太平洋での核実験は、一九五八年までにマーシャル諸島で六七回、一九六二年にはジョンストン島、クリスマス島で実施しました。その後、イギリスやフランスも核実験を実施。当時の国会議事録や報道を見ると、広範囲に「死の灰」が降り、放射能雨()も観測され、漁船のみならず貨物船や気象観測船も被害を受けていた情報が政府内では共有されていたことがわかります。
 乗組員の被害や不安は語られないままいつしか忘れられていましたが、一九八五年に高知県の高校生たちのサークル「幡多高校生ゼミナール」がマグロ漁船の元乗組員を探しだし、聞き取り調査を始めました。「当時の被害を知ろう」とする高校生の真剣で率直な問いかけに、元乗組員たちの口から少しずつ、体験と苦しみが語られるようになります。

注 核実験で放出された人口放射能を含んだ雨

核の海の証言

 一九五四年に日本はどのような被害を受けていたのか─。当時、船体と乗組員、水揚げされた魚の放射能検査をおこなったのは厚生省で、被害の分析などは同省のもとにある「原爆被害対策に関する研究連絡協議会」が担っていました。
 幡多高校生ゼミナールとともに三〇年にわたって調査活動をおこなっている「太平洋核被災支援センター」の山下正寿さん(高知県在住)は、新聞社やテレビ局と協働して、厚労省に当時の資料開示を要求。そのたびに「解決済みで窓口もない」との返答を受けていました。
 ところが二〇一四年九月、厚労省は関係文書一九〇〇ページを開示しました。内容は、水揚げ港での検査結果、放射能汚染が認められ廃棄処分となった魚の決裁文書などです。また、「どの数値で線を引き放射能汚染とするのか」「どこまでを核実験による被害と認識するのか」が日米外交交渉の焦点だったことを裏づける文書もあります。
 その後、水産庁が開示した文書では、アメリカのレッドウィング作戦(一九五六年)や、イギリスのクリスマス島での核実験時にも漁船被害が調査され、日本がアメリカとイギリスに補償の要求を検討していたことがわかっています。

先入観を脱ぎ捨て「もっと知る」こと

 こうした動きを受けて昨年、被害を受けた漁船が多かった高知県が、県主催の健康相談会を室戸市と土佐清水市で開催しました。
 相談会には、元乗組員やその遺族が相談に訪れました。「ビキニの海には近づかなかった」「灰を浴びたという記憶はない」と語りながらも、若くして病気になった自分の体や家族の死を改めてかみしめる姿を目の当たりにし、核実験被害の全容を明らかにする必要を痛感しました。
 ビキニ事件は、「第五福竜丸が被害を受けた」と語られがちです。そのため、他船の元乗組員や遺族に「もしかしたら被ばくしているかもしれない」という不安を家族にさえ話せない状況を生みだしました。さらに第五福竜丸関係者にも沈黙を強いて、実験場となったマーシャルの被害やキャッスル作戦以外の核実験被害も見えなくしてしまいました。
 全容解明への道は、先入観を脱ぎ捨て「もっと知ること」だと思うのです。(終)

いつでも元気 2016.4 No.294

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