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2016年6月30日
母の遺言 沖縄戦の証言 写真家 森住 卓
米軍海兵隊が使う「オスプレイ」は、頻繁に墜落事故を起こす危険な軍用機だ。沖縄県北部の東村高江地区では、県民の反対を無視しオスプレイが発着する新基地建設がすすめられている。基地建設に反対してゲート前に座り込む県民の中に、砂川弥恵さん(72)の姿が。砂川さんは週2回、うるま市から車で1時間半かけてやって来る。「なぜ座り込むのか?」の問いに、彼女は「母の残した『遺言』が、私を高江や辺野古に通わせている」と答える。
遺品
1989年、沖縄戦を生き抜いた砂川さんの母・キクエさんが他界した。キクエさんは戦争で心臓を患い、後遺症に苦しみながら、女手一つで弥恵さんを育てた。遺品を整理中、「母の遺言──戦争体験記」と鉛筆で書かれた分厚い茶封筒を発見した。
手記の冒頭には、「語り継がねば、生き証人としての使命感で筆を取る」「戦争の悲惨さを伝える義務があると感じ、2度と戦争はあってはならない、起こしてはならない。これを母の遺言とする」と書いてある。この遺書を書き終えた日を「私の終戦記念日」だと記している。
キクエさんの「遺言」からは何度も死線を乗り越えてきた人間だからこそ、子や後世に伝えなければという強い意志と、平和への断固とした願いを読みとることができる。「使命」をやり遂げたキクエさんは、73歳で亡くなった。
遺言の語る沖縄戦
沖縄戦は1945年3月26日から6月23日まで。わずか2カ月間で戦没者総数は20万人、そのうち民間の犠牲者は9万4000人とされ、県民の4人に1人が犠牲になった。キクエさんの「遺言」は、沖縄戦が始まる約1年前から始まる。
■キクエさんの手記と、弥恵さんの話を森住氏がまとめたものです。 沖縄戦前 青年学校の教師をしていた夫・仁里と結婚後、首里城近くにある夫の実家の近くで暮らすことになった。1944年2月8日、弥恵が生まれた。 ※学童疎開船「対馬丸」については、本誌2015年6月号に掲載してます 避難 1945年、米軍は沖縄に矛先を向けてきた。空襲警報のサイレンが鳴ると夫は家族を防空壕に避難させるより先に、学校にある重要書類を取りに走った。残された私と2人の子どもの避難は、自宅に下宿していた青年学校の生徒が手伝ってくれた。あの青年たちは戦争を生き抜いたのかどうかわからない。 地獄 壕に隠れていると日本兵が入ってきて「軍が使うから」と住民を追い出した。日本軍は自分たちを守らないことを身に染みて感じた夫は、いったん壕を見つけると家族を置いて次に避難できる壕を探しに出た。夜になると、一族14人は手を繋ぎながら、夫が見つけた壕に移り隠れることを何度も繰り返した。 肉親の死 6月17日、新垣で爆撃に遭い夫が腕、母は両足に重傷を負い動けなくなった。仁志は頭に砲弾の破片を受けていた。私と弥恵も足に重傷を負っていた。夫は「子どもたちをよろしく」と言い残して、息を引き取った。3日後、仁志も亡くなった。遺体は埋めることもできなかった。 捕虜、そして戦後 「捕虜となれば銃殺される」と思っていたが、米軍は負傷した住民をトラックに乗せ、野戦病院のテントに連れて行った。弥恵もそこで治療を受けた。弥恵の右ふくらはぎは、肉がそぎ取られ骨が見えていた。米軍の医者は足を切断するつもりだったが、「切断はしないで」と懇願し、何とか娘の右足を守ることができた。 |
母に背中を押されて
10年ほど前、弥恵さんは東村に友人と畑を借り、農作業を始めた。畑に通う途中で辺野古のキャンプシュワブ前を通り過ぎる。そこでは基地建設に反対する人たちが座り込んでいた。何回か素通りしているうちに「あんた、そのままでいいの?」と母が言っているような気がして、母の遺言を思い出した。それから高江や辺野古に座り込むようになった。
弥恵さんは「母の遺書を見つけなければ、座り込みに参加していなかったと思う。母が背中を押してくれたんです」と、話す。
「遺言」の最後には「生きているのではなく、生かされている」と記されていた。この言葉は、沖縄戦で犠牲になったすべての命に捧げられたのだと思う。
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何度悲劇を繰り返すのか。4月28日、米軍属による女性殺人事件が起きた。その抗議集会で、マイクの前でうつむいていた男が顔を上げた途端、大声で泣き出した。他の参加者も目頭を押さえていた。一人の死の悲しみと怒りを、これほど強く共有したシーンを今まで見たことがない。沖縄の抱える歴史的苦難を、彼らの涙が物語っている。その怒りは本土の無関心に突き付けられているのだ。
いつでも元気 2016.7 No.297
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