いつでも元気

2003年9月1日

みんいれん半世紀(9) 民医連結成前夜 無産者医療の歴史を引き継いで 津軽ではリンゴ農民とともにたたかった津川医師らが

 故・津川武一医師は、終戦から二年後の一九四七年、青森県弘前市に「津川診療所」を開設しました。津川医師の診療所は、民主運動のセンターになり、やが て診療所を母胎に、そこに結集した民衆の力で五二年、津軽保健生協はうまれました。民医連が結成される前の年です。

毎晩農家を泊まり歩いて
 いまはどこでもやっている医療懇談会。津軽保健生協では発足当時から「移動診療」という名前で、患者さんのところに出向くことを基本としていました。
 「移動診療というのは、患者に来てもらうのではなく生活の場に出向こうという運動でした。冬場は馬そりでね、そりもいけない山間部にはポータブルのレン トゲン装置を背負っていきましたよ」と語るのは、元職員の津川文義さん(74歳)。戦後、津軽の民主運動に参加し、津軽保健生協ができると、津川医師に誘 われました。
 移動診療のルーツは、津川診療所時代の津川医師の活動にありました。やはり津川医師に診療所を手伝ってくれと声をかけられて職員になった津川重義さん (74歳)は当時を振り返り、「先生は毎晩、農家を泊まり歩いて、重税や生活のことを語らうのです」といいます。
 「しかし、医者がくるのですから健康や医療の相談が当然出てきます。津川先生は、でかけるときには必ず往診カバンを持っていきました。診察もして、治療 が必要な人を翌朝、診療所に連れてきました。結核や栄養障害で苦しんでいた貧しい農民は、医療に飢えていたといえます」

班会風景。まず肩たたきでリラックス
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まずおにぎりを食べさせて
 津軽での医療生協運動には「前史」がありました。戦前、青森県西部の車力村などで無料診療をおこない、官憲に弾圧されながらも、その後八戸に無産者診療 所を開いた岩淵謙一医師の活動です。津川医師は「私たちの先輩」と呼び、こう語っています。
 「岩淵先生ね、患者さんが来るとね、一番最初になにをやったかというと、待合室の所に戸棚があって開けるとおにぎりが入っている…それを食べさせてから 診療始めたの…小作農は貧乏だから、まず栄養不良なの…本当にヒューマニズムに徹した医道の、医師の道の徹底したもの」(津軽保健生協創立五〇周年記念誌 から)
 津川文義さんは「岩淵先生の活動した車力村は低湿地帯で、腰切田というのですが、腰まで泥につかった農作業はたいへんな重労働でした。家に帰ると、布団 なんかありません。わらの上にむしろを敷いて寝るのです。冬でもそれです。戦後の生協運動が引き継いだ無産者医療の歴史の背景には、津軽の民衆の貧しさが ありました」といいます。

重税反対で先頭に

1948年の弘前税務署前での大
集会(右)壇上に津川医師がいる
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 津川診療所はにぎやかでした。労働組合や農民運動の組織から困窮者の相談、診療…「小さい診療所でごちゃまぜであった」(津川武一『医療を民衆の手 に』)。「ごちゃまぜ」の活動は、「働くものの命とくらしをまもる」という一本でつながっていました。
 津川重義さんは農民組合の活動家でもありました。診療所が民主運動のセンターであったと話します。「診療を終えた午後はリンゴ農家への重税反対運動など 民主運動の事務所になっていました。当時、リンゴ農家が税金の申告をすると、実際の二倍もの収穫の計算で税務署は税額を決定していました。たまりかねた農 民は農民組合をつくって、税務署や県と交渉をくり返しましたが、津川先生は、農民組合の先頭に立ちました」

移動診療での津川武一医師(左)(阿部誠也『アルバム津川武一の軌跡』より)アルコール中毒の治療にも熱心で「ノックビン」投与などで効果をあげた
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農民・労働者四千人が守った
 一九四八年、津川医師は逮捕されました。容疑は「政令二〇一号」違反。官公労働者の争議権と団体交渉権を奪ったこの政令に国鉄労働者が反対運動をおこし ましたが、それをあおったというのです。「二〇一号」は、戦後すすんだ日本の民主化運動を抑えにかかった占領軍総司令官マッカーサーの指示によるものでし た。
 「逮捕状が出てから三三日間、津川先生は捕まりませんでした。活動家ではない一般の市民がかくまったんです」と、津川文義さんは振り返ります。文義さん は津川医師の連絡係を務めました。
 「重税反対運動が高まって、津川先生は一〇月八日、農民への重税を取り消せという税務署との交渉に公然と姿を現しました。そのあと私たちは『津川武一の 逮捕状を撤回せよ』と要求して裁判所までデモをしました。逮捕はされましたが、四千人が津川先生を守ったのです」とデモに参加した津川重義さんはいいま す。

診療所を働く人々に返す
 津川医師たちの医療生協づくりは一九五一年からはじまりました。「私は自分の小さな診療所を津軽の働く人びとに返すことを決意した。個人開業医ではどん なにヒューマニズムにあふれていたとしても、やはり限界がでてくる…」(『医療を民衆の手に』)。出資金は一口二百円。どんな世帯でも組合員になれる額で した。津川医師は「私たちが『民衆の手で医療を』という運動を起こしたとき、まっさきに参加してきたのは…ともにたたかった農民であった」(同前)とのべ ています。

 一九六九年、こうした農民に支えられ津川医師は衆議院議員に初当選。東北ではじめての日本共産党国会議員として、五期一三年、「リンゴと米と出稼ぎ労働者」のためにたたかいました。

文・八重山薫記者/写真・酒井猛

いつでも元気 2003.9 No.143

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