いつでも元気

2004年1月1日

みんいれん半世紀(13)薬害スモン 薬害をくり返させない医師の責任 莇医師と私がそれぞれにたどった道 本庄 庸

六〇年代から七〇年代にかけておこった薬害事件「スモン」。被害患者数は一万人をこえた。サリドマイドとならぶ構造的薬害で、民医連は各地で被害者支援 にとりくんだ。当時私は、福岡スモン訴訟で統一医師団の団長格を務めていたが、このたび、同じころ北陸スモン訴訟にかかわっていた莇(あざみ)昭三・全日 本民医連名誉会長(以下敬称略)を金沢に訪れる機会があった。
 莇と私はそれぞれ北陸と福岡でスモン訴訟を「専門家」として支える困難なたたかいに加わったのだが、当時は互いにそのことを知らなかった。今回、同じよ うな状況のもとでスモン患者支援運動にかかわっていたことを知り驚いた。

「私の処方で患者さんがスモンに」

 莇も私も、神経内科に関してはまったくの素人だった。神経内科を知らない二人が、神経疾患でもあるスモンの訴訟で、なぜ原告側「専門家」として裁判にかかわるようになったのか。
 莇は、一九六九年内科学会地方会で、北陸ではじめてのスモンの症例報告を行なった。そのうちのひとり、「I婆さん」は莇が昔から一家全員をみてきた患者であった。
 のちにスモンの原因がキノフォルムによるものとわかると、莇は病歴室に駆けつけ、I 婆さんの古いカルテを開けた。そこには、莇自身が、キノフォルム投与とその後の両足先端からのしびれ感を記録していた。莇は「すべてを私にまかせてくれた 人を、私自身がスモンに罹患させていたことに愕然とした」という。
 私も同じような経験を経ていた。二八歳の青年H。キノフォルムを服用した後典型的なスモン症状を発症、原因がわからぬままに事情があり福岡の地を去って いる。私はこの青年の行方を追ったが、どうしても消息がつかめなかった。

被害者支援の決意

 一九七一年、「石川県スモンの会」が結成されると、莇は、終始両手で両足をさすっている患者の一人ひとりを見ながら、「微力でも援助しよう」と裁判などでスモン患者を支援することを決意した。
 私も「スモンの患者さんを守る会」で活動していたが、福岡でも訴訟をおこすことになり、独自の鑑定を行なう医師団結成を要請された。私は迷いに迷ったあげく、引き受けることを決断した。
 道は、決して平坦であるはずはなかった。強大な国家権力と製薬独占を相手にたたかう裁判で、被告側の専門家の証人や、場合によっては国のスモン研究班の 班員(その多くは神経内科学の第一人者)との対決も考えられた。
 しかし、苦しんでいる患者をまえに、その苦痛を少しでも和らげるためにがんばる、それが民医連医師ではないか。そんな気概があったと思う。以来それぞれ の地で、莇も私も神経内科の猛勉強を始めたのである。
 一九七八年、福岡スモン訴訟は、北陸、東京についで原告が勝利した。新聞では「厚生省鑑定ぬき」と大きく報じられた。当時、薬害訴訟では必須であった国 の鑑定なしで、私たち医師団が作成した「統一診断書」を裁判所は採用したのである。

被告席にはすわらなかったが

 裁判終結後はどうだったか。私たち二人はここでも同じ問題意識を持ち続けていたのだった。
 スモン訴訟ではキノフォルムを処方した医師の責任は問われず、医師は被告席にすわらされることはなかった。しかし果して医師の責任はなかったのか。莇も 私も当時キノフォルムを日常的に処方していた。その処方でスモンを発症させている。法的な責任は問われなかったが、道義的な責任はどうなのか。
 莇は、彼の著書『なくなったカルテ』で、スモン患者にキノフォルムが投薬された証明を得るために奔走したときの、非協力的な医師のことを書いている。カ ルテの提供を依頼すると「カルテは焼却した」「あるかどうかわからない」という医師。なかには、肝心の部分だけ抜かれているカルテもあった。
 重要なのは、同じ誤りをくり返さない保障をつくることだ。しかし、その後も血液製剤によるエイズやC型肝炎の問題がおこっている。そしてここでは、医師 もまたその責任を問われているのである。

 スモン訴訟は、政財官の癒着、産学協同の問題などとともに、医師の姿勢や、医師と患者の関係、カルテ記載の問題、医薬品情報の日常診療への生かし方が問われた。「共同の営み」としての医療をすすめるうえでもスモンが提起したこの課題を深めることが重要ではなかろうか。
 莇と私はこの点でも共通の問題意識にたっていた。莇との話は尽きることがなかった。

薬害スモンとは  「スモン」は、激しい腹痛と下痢に始まり、脊髄神経障害による両 下肢末端の激しい異常知覚と痛み、そしてマヒがおこる。視神経障害により失明に至ることもある。一九六四年、「奇病」として報道され話題になった。当初伝 染性といわれて、患者は激しい肉体的苦痛に加え、社会的孤立により自殺をはかるなど悲惨な状況に追いこまれた。
 七〇年、この病気が、当時「安全で使いやすい整腸薬、止痢剤」として広く使われていたキノフォルムの慢性中毒であることがあきらかになった。
 この副作用情報をつかんでいながら製造、販売、使用を許可した国と、同じく副作用を知りながら製造、販売し続けた製薬会社に対し、七一年より全国二七地 裁で損害賠償を求める訴訟がおこされた。
 全国各地で多くの民医連職員がこの訴訟を支援した。裁判は最終的に和解が成立し原告が勝利した。また、このたたかいにより、薬事法の改正をかちとったの である。

いつでも元気 2004.1 No.147

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