MIN-IRENトピックス

2020年12月29日

あの日から10年

文・写真 豊田直巳(フォトジャーナリスト)

第1回 村の祭り

 筆者が福島県飯舘村に初めて入ったのは2011年3月29日。福島第一原発から30km以上離れたこの村でも強い放射線が計測され、避難は一刻の猶予も許されない事態だった。
 ところが、避難指示はしばらく出なかった。それどころか、県から委嘱されたという「放射線健康リスク管理アドバイザー」を名乗る大学教授がやって来て、「注意事項を守れば健康に害なく生活していけます」と説いた。避難を否定する“安全論”。村人の大半は残った。
 4月11日、突如として政府の避難指示が予告される。その知らせが届いたのは、改めて別の大学教授が村に来て、再び安全性を強調した翌日のこと。村人は驚いた。実際の避難指示は事故から42日も経過した4月22日。既に村人は大量の被ばくをしていた。
 忍耐強いと言われる村人は理不尽さに愚痴をこぼしながらも、指示に従った。そして家族も地域もバラバラにされて、仮設住宅や公共住宅、「借り上げ」と呼ばれる民間のアパートに離散した。

帰ってきたのは2割

 無人の村で始まったのが“除染”だった。何代にもわたって守ってきた肥沃な田畑の表土を剥ぎ取り、フレコンバッグと呼ばれる黒い袋に入れる。家や牛舎、倉庫を雑巾がけし、その雑巾や落ち葉、刈り取った雑草もフレコンバッグに入れる。これも除染と呼ばれた。
 被災前の飯舘村は約1700世帯しかなく、除染事業も3年ほどで終わった。すると除染で「きれいになった」はずの民家や牛舎の解体が始まった。
 「なんのための除染だったのか」とあきれる声をかき消すように、大型ダンプカーが村道を走り回り、重機が建物を解体していく。その廃材も黒い袋に詰められた。これも放射能で汚染されているはずだが、なぜか可燃物扱い。村内に新たにできた「減容化施設」と呼ばれる仮設の焼却炉で燃やされた。
 2017年春、飯舘村は川俣町、浪江町、富岡町の一部とともに避難指示が解除された。しかし、既に避難から6年が経過。若い世代は避難先で新しい仕事に就き、家を購入したり、子どもを地域の学校に通わせていた。
 また、若年層ほど影響が大きいと言われる被ばくを警戒、仕事もない村には避難指示が解除されたからといって帰還しなかった。櫛の歯が欠けたように隣近所のいない集落に、年寄りだけで生活するのは不安だと帰還を諦めた高齢者も少なくない。帰還率が高いといわれる飯舘村でも、帰ってきたのは事故前の全村民の2割に満たない。

フレコンバッグの山の中で

 飯舘村で有名な大雷神社の例大祭が2018年5月に行われた。マスメディアは「10年ぶりの練り歩き」と大々的に報じ、あたかも日常が戻ったかのように印象づけた。「10年ぶり」というが、元々、この祭りは3年に1度しか行われていない。
 新聞には「法被や武者装束に身を包んだ総代や氏子ら約120人」「行列には神輿や山車、馬なども参列」との記事が載った。だが、神輿を担ぐ若者は村人ではなく、福島大学の学生ボランティアがかり出されたこと。氏子も夜になれば避難先に帰ることに記事は触れなかった。
 何よりも「練り歩いた」周囲には、無数のフレコンバッグを覆うシートの山があることを報じなかった。飯舘村だけで、220万個とも230万個とも言われる黒い袋が目に入らないはずはないのだが。(次号に続く)

 2011年3月11日の福島第一原発事故から間もなく10年。フォトジャーナリストの豊田直巳さんが、フクシマの過去と今を連載で紹介します。

いつでも元気 2021.1 No.350

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