MIN-IRENトピックス

2021年1月29日

核兵器のない世界へ

聞き手・武田 力(編集部) 写真・若橋一三

山田寿美子(やまだ・すみこ)
2歳の時に爆心地から約2kmの地点で被爆。原爆で父母を亡くし、親戚宅を転々とする。大学卒業後、福島生協病院(広島市)で医療ソーシャルワーカーとして被爆者の生活に寄り添う。退職後、山田居宅介護支援事業所を立ち上げて所長に。30年以上にわたって、被爆者として証言活動を続けている。広島県原爆被害者団体協議会副理事長。

核兵器のない世界への重要な一歩となる「核兵器禁止条約」が1月22日に発効します。
2017年7月、世界の122カ国・地域の賛成で条約が採択されたあとも、唯一の戦争被爆国である日本は条約への参加を拒否し続けています。昨年10月には「日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」がスタート。
全日本民医連は、年末までに100万人分の署名を目標に取り組んでいます。条約発効の意義などについて、広島の被爆者で元民医連職員の山田寿美子さんに聞きました。

核兵器禁止条約
 核兵器の開発、実験、生産、保有のほか、核兵器使用の威嚇などを包括的に禁止した史上初めての国際条約。2017年7月、国連加盟国の6割にあたる122カ国・地域の賛成で採択された。条約を批准した国・地域が50に達した後、90日で効力を生ずると規定(第15条)。昨年10月24日、ホンジュラスが50番目の批准国となり、1月22日からの発効が決まった。12月11日にベナンが批准し、その時点で批准した国・地域は51、署名した国・地域は86に。

核兵器禁止条約の採択から発効まで3年でこぎ着けたことは驚きですし、とても嬉しいニュースでした。私自身も原爆で両親を亡くしましたが、生き残った者の使命を1つは果たせたかなという気持ちです。一方で、まだまだもっと多くの国に批准してもらって、核保有国に圧力をかけていかなければとも思います。
 条約は「被爆者が受けた容認し難い苦しみ」に留意しながら、核兵器の開発・実験・生産・保有などを全面的に禁止しました。日本は唯一の戦争被爆国として、本来ならば条約の内容を推進する先頭に立つべきですよね。被爆者の願いに背を向ける日本政府の態度に怒りを覚えます。

居場所のない子ども時代

 私が被爆したのは2歳の時。爆心地から約2kmのところに住んでいました。当時の記憶はありませんが、爆風で1m吹き飛ばされ、割れたガラスの破片が身体じゅうに突き刺さったそうです。
 母は全身をやけどして亡くなり、爆心地近くにいた父は遺骨すら見つからず、私は孤児になりました。親戚の家を転々とした子どもの頃を思い出すのは、今でも本当につらいです。どこにも居場所がなくて、精神的にすごく苦しかったので。
 私が中学3年生の時、結婚した姉が岡山の家に呼び寄せてくれました。そこでも私を被爆者だと知った人から「病気がうつる」などと言われて、被爆者に対する差別意識を感じました。
 愛知の大学へ進学する際は、「広島へは二度と帰りたくない」と思っていました。でもサークル(部落問題研究会)の活動で差別について学んだり、地域活動に取り組むうちに、学びを活かして人の役に立ちたいという気持ちが生まれてきました。
 福島生協病院(広島市)で医療ソーシャルワーカーとして36年間、被爆者の生活に寄り添ってきました。退職後は介護支援事業所を立ち上げて、ケアマネジャーとして関わっています。

生涯続く放射能被害

 相談活動をしていると、80代でがんになり「原爆症の認定申請をしたい」という方に今も出会います。被爆の後遺症や子孫への影響をずっと気にしながら生きてこられたのだなと、胸が痛みます。戦争で殺されるのも悲惨ですが、それとは異質の残酷さが核兵器にはあります。その恐ろしさをもっと知らせていかなければと思います。
 就職や結婚で差別されたり、思うように働けず経済的に困難を抱えた被爆者たちにたくさん出会ってきました。国の被爆者援護も十分とは言えない。それなのに「被爆者は医療費が無料になっていいよね」などという声が、多く聞かれるようになってきました。
 背景には、社会保障の脆弱さや貧困の広がりがあります。平和の象徴である憲法9条と一緒に、憲法25条も守らなければ、みんなが安心して暮らすことはできません。

条約発効を力に

 原爆で孤児になったあと、「親がいてくれたらなあ」とずっと思いながら生きてきました。こんな悲しい出来事を二度と再び繰り返してはなりません。
 核兵器がこの世に存在する限り、私たちはそれが使用される脅威にさらされ続けます。条約発効を力にして、核兵器のない世界を実現するため一緒に声をあげていきましょう。

いつでも元気 2021.2 No.351

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