MIN-IRENトピックス
2021年2月26日
あの日から10年
第3回 何を“伝承”するのか
文・写真 豊田直巳(フォトジャーナリスト)
福島第一原発事故発生の翌々日、2011年3月13日の朝、私は前日に仮眠を取った郡山市から原発のある双葉町に入った。町には12日午後6時25分、全域に避難指示が出ていた。しかし、立ち入りを制限する警察などの検問はおろか、危険を知らせる掲示板の一つも設置されていなかった。
その頃、双葉町で生まれ育った大沼勇治さん(44歳)は、身重の妻せりなさん(45歳)を連れて、前夜に車中泊した南相馬市の道の駅から会津に向かっていた。まさか、自分が小学生の時に考えた「原子力明るい未来のエネルギー」の標語と、真逆の事態が起きているとは思いもよらずに。
一方、私は町の中心部にある双葉厚生病院の玄関先で恐怖と困惑の中にいた。持参の放射線測定器の線量計の針が振り切れてしまったからだ。辺りは毎時1000マイクロシーベルト(1ミリシーベルト)の測定器の限界を超え、事故前の東京の2万倍以上の放射能に覆われていた。
その場からの撤退を決めた直後、無人となった町で巨大な看板「原子力 明るい未来のエネルギー」を見た。全長16mもある看板は商店街入口に立ち、原発推進を掲げる町の姿を象徴していた。未来を奪った原子力エネルギーの皮肉な現実と、原発の安全神話のもたらした結果のあまりの無惨さを思いながら、私は看板を見上げた。
しかし、安全神話を信じ込み、原発の恩恵に期待したのは大沼さん一人ではない。1987年に双葉町が原発推進PRの標語を公募した際、178人から281点の応募があった。その中から5点が入選し大沼さんが優秀賞に選ばれ、他の入選作「原子力郷土の発展豊かな未来」「原子力豊かな社会とまちづくり」と一緒に原子力広告塔として掲げられた。
撤去から一転、展示へ
事故から4年後の2015年、双葉町は「老朽化して危険」と看板を撤去した。しかし、そもそも看板のあった場所は放射能汚染で近づけない。大沼さんは「たとえ見たくなくても原発を推進した町の歴史を記録するもの。この場にそのまま残してほしい」と要望したが、聞き入れられなかった。伊澤史朗町長は「撤去した看板は大切に保存する。町が復興した時に改めて復元、展示を考えている」と語った。
昨年9月、避難指示が一部解除された町の一角に、福島県の「東日本大震災・原子力災害伝承館」が開館した。しかし、約170点の展示品の中に、あの看板はなかった。アリバイのように、展示室の壁に看板の大型写真が貼られていただけだ。
家族4人で見学に来て、その写真を見た大沼さん。伝承館の高村昇館長(長崎大学教授)に直接、建物の外の広場を指差しながら「あそこに展示するのはどうですか。いつでも見られるし、看板の前にベンチでも置けばお客様も来るかもしれない」と提案した。
しかし、開館にあたり「未曽有の原子力災害に福島がどう立ち向かい、復興してきたのかを知ってもらいたい」と、あくまで復興を強調する挨拶をした館長は「今後、有識者らの話を聞きながら進めていきたい」と答えるだけだった。
年が明け、原発事故から10年目の今年1月、事態が動いた。福島県が伝承館に看板の文字パネルの展示を決めたのだ。大沼さんだけでなく、同様な思いを抱いていた被災者の声を県も無視できなくなったのだろう。
大沼さんは今も茨城県古河市に避難中で故郷に帰ることはできない。「次世代に、子どもたちに真実を伝えることで、本当の『明るい未来』を手渡したい」。そんな願いと努力が、人々の共感を得て一歩目の道を開いたのだ。
ドキュメンタリー映画
サマショール 遺言第六章
監督 豊田直巳、野田雅也
原発事故で故郷を追われた福島県飯舘村の人々を、フォトジャーナリストの豊田直巳さん(本欄連載中)と野田雅也さんが撮影した記録。「サマショール」とは1986年のチェルノブイリ原発事故で、立ち入り禁止区域に自らの意志で暮らしている人々のこと
上映予定
フォーラム福島 2月19~25日
ポレポレ東中野(東京) 3月6日から
神戸映画資料館(兵庫) 3月5~9日
第七藝術劇場(大阪) 3月6日から
シネマスコーレ(愛知) 3月上旬から
京都シネマ 3月5日から
※詳しくはホームページで(QRコード参照)
いつでも元気 2021.3 No.352
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