いつでも元気

2012年1月1日

元気スペシャル 新春座談会 生きることを支える 東日本大震災の救援活動から

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『被災者に寄りそう医療』稲光宏子著(新日本出版社・1575円)

 東日本大震災の発生直後から一一月末まで、のべ一万五〇〇〇人以上の医療・介 護などに関わるスタッフを送り続けた民医連。支援者数、被災者に寄りそう支援内容、自らも被災しながら被災者の命を守ろうと奮闘する民医連職員の姿は、他 の医療・介護関係者やマスコミなどにも注目されました。
 そんな民医連の活動が本になりました。民医連が被災者に寄りそう支援ができたのはなぜか、そして真に「寄りそう」とは――『被災者に寄りそう医療』を執 筆した稲光宏子さんと、佐々木隆徳さん(宮城・坂総合病院=医師)、石山正子さん(北海道・訪問看護ステーション稜北=看護師)、全日本民医連・長瀬文雄 事務局長が語りあいました。

「不幸の津波に負けない」運動・実践を

被災地で発揮された「寄りそう」医療

長瀬 稲光さんは今回の取材で、どんなことを感じましたか。

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稲光宏子さん
作家。東日本大震災での民医連の支援活動を取材し『被災者に寄りそう医療』(新日本出版社)を出版。ほかに『ノベライズおとうと』、『タケ子』(いずれも新日本出版社)などの著書がある

稲光 民医連の支援の内容が非常に現実的で感動しました。震災とは、非日常の極みですが、そこには日常の活動がそのまま現れます。日ごろの医療活動そのままの“地”が出てくると思うのです。
 民医連の支援は、まさしく『被災者に寄りそう医療』そのものだった。日ごろから患者さんや地域社会の日常、現実にしっかり根づいた医療をずっと追求しているからこそだ、と感じたのです。

長瀬 佐々木先生は、被災地の坂総合病院で、災害時医療の責任者として震災直後からご奮闘されましたね。

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佐々木隆徳さん
宮城・坂総合病院救急科
医師

佐々木 坂総合病院は二〇〇五年から災害を想定した委員会を 設けて、災害時の医療対応について訓練してきました。「訓練していないことは、非常時になっても絶対にできない」と、日常の救急医療で痛感していますか ら。この訓練のおかげで「何をすればいいかわからない」というパニック状態にはなりませんでした。
 ただ、災害はいつ起きるかわかりませんから、心の準備が十分だったというわけではありません。「今まで訓練してきた全てを出して、がんばらなければ」と 気を奮い立たせました。そこへ全国からたくさんの支援の方に来ていただき、精神的にも支えていただきました。

家族の安否を気遣いながら奮闘

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長瀬文雄さん
全日本民医連事務局長

長瀬 自ら被災し、「家族が心配だった」という職員もたくさんいたと聞きます。
佐々木 震災直後は電話も交通網も麻痺し、家族の安否を確認できない職員もたくさんいました。だからといって帰宅した職員はほとんどいなかったと思います。命を守ることが仕事ですから。
 実は私も離れて暮らす両親が無事か、気になって仕方がなかったのです。
長瀬 しかし、一日約二〇〇人もの救急患者さんがつぎつぎ運ばれてきた。
佐々木 周辺の病院が軒並み被災し、救急隊員も「この地域では坂総合病院しか運ぶところがない」と言っていました。
 両親が気になるものの、その気持ちを引きずると、患者さんを救う活動に差し障る。ですから腹をくくり、目の前の患者さんの命を救うことだけに力を注ぎました。
 震災発生から三日後、両親から携帯電話に無事を知らせるメールが来たときは嬉しかった。このメールがあったからこそ、その後もがんばれた。一二日間、一人の救急患者も断りませんでした。

「咳が出て眠れない」の訴えに

長瀬 石山さんは岩手県沿岸部の大船渡市に支援に入ったのですね。

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石山正子さん
北海道・訪問看護ステーション稜北
看護師

石山 震災から一カ月たっていましたが、まだたいへんな状況 でした。ある避難所では五〇~六〇人が避難生活を送っているのに、洗濯機も衣類を干す場所もない。掃除機もなく、換気も悪い。そのせいか「咳が出て夜も眠 れない」という訴えが多かったですね。そうした環境を整備するところから始めました。
 別の避難所では、声をかけてもずっと黙り込む六○代の男性がいました。「これはダメだ。これじゃ元気になれない」と思い、九三年に奥尻島で亡くなった私 の両親のことを話しました。「私の親も津波で亡くなったんだ。辛いよね」って。
 すると、その男性は身の上をぽつりぽつりと打ち明けてくれました。震災直前、仕事がないことを苦に、兄が自殺したこと。自分も健康が悪化して派遣労働と なり、さらに健康が悪化して仕事にいけなくなったこと。そこへ津波が襲い、家も全部流されたそうです。
 話し終わった後、マッサージと体操をしました。そうしたら上は二〇〇あった男性の血圧が一四〇に下がっていたんです。「俺、負けてられない。元気になれるようがんばる」と言ってくれました。

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全日本民医連東日本大震災現地対策本部(坂総合病院)のミーティング。全国から続々と支援が(2011年3月13日、写真=編集部)

長瀬 座談会に来る前にも、その大船渡市に寄ってこられたそうですね。 
石山 昨日、大船渡市に行ってきました。みなさん、笑顔で迎えてくれて。仮設住宅で元気に生活されていました。
 民医連の仲間は大船渡市で避難所に入るだけでなく、往診や地域訪問もおこないました。問題があれば次の支援者に引き継ぎ、支援をつないでいく。みんなで 同じ人を支えようとがんばり、元気にすることができる。「民医連で働いてきてよかった」と実感しました。

ふだんの綱領実践あってこそ

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宮城県多賀城市の仮設住宅。避難所から仮設に移っても生活再建はこれからだ(写真=編集部)

長瀬 佐々木先生や石山さんの救援活動は、新聞やテレビで報道されました。「寄りそう」医療、支援のあり方が注目されたのだと思いますが、稲光さんはどんなことをお感じになりましたか。
稲光 「寄りそう」という言葉は、どこでも使われますよね。 「寄りそう」とはその人の立場に立ち、その人が立ち上がれるように支える、いっしょにがんばることだと思うのです。簡単ではない。しかし民医連のみなさん はそれを気負わずにやっている。本当に助け合う、支え合うとはどういうものか、国民全体が実感すれば、一人ひとりを大切にする社会に変える大きな力になる と感じました。
佐々木 「寄りそう」を言い換えると、何が求められているかを理解することでしょうか。ニーズを把握し、何が求められているのかを常に意識することが、地域医療のあり方だと思います。
長瀬 坂総合病院は、今も仮設住宅を訪問していますね。
佐々木 私もつい先日、健康相談に行ってきたところです。仮設住宅で生活されている方々の現状を知り、私たちが訪問することでその方がたが少しでも健康になる手がかりになればと思っています。
石山 支援活動をふり返ると、私は民医連の綱領を思い出します。患者の立場に立つ、要求をしっかりつかむ、人権を守るなどの綱領の立場は、被災地であろうがなかろうが、ふだんから実践していることですよね。
 病気だけみても患者さんは生きていけない。生活環境、家族関係、経済的な問題、家族の健康状態などもみないと、その家は元気になっていかないですから。

「やれることをやろう」ではなく

長瀬 震災から九カ月以上たったいまでも、被災地はとても復興しているとは言えません。避難生活・仮設住宅などのくらしが原因の「震災関連死」も相次いでいます。原発事故もいまだ収束せず、多くの国民が不安にさらされています。
 東日本大震災では、沿岸部の病院が大きな打撃を受けました。ところが、震災を口実に、被災した病院を廃止してしまおうという政治の動きもあります。
 このような現状のもとで、私たち民医連に求められていることは大きいと感じています。みなさんはどうお考えですか。
稲光 病気だけでなく生活背景もみるという民医連の視点がありますね。これは民医連だけが持つべき特質ではなく、日本の医療界全体が持つべき視点だと感じます。
 民医連は今回の被災地支援で、医師会や行政などとも協力し、「やれることをやろう」ではなく「やるべきことをやろう」という意気込みで奮闘されたと感じています。今後もさまざまな局面で、国民に求められる医療を幅広い関係者とともに実践してもらえればと思います。
石山 私が思うのは、震災で助かった方たちもたいへんだということです。
 いまだにまちの復興の見通しが立っていないところも多い。国は消費税を増税したり、年金の受給額を減らし、受給開始年齢も遅らせると言っています。これ では被災者の生きる力がますますなくなってしまう。私たちは社会保障改善、安心して住み続けられるまちづくりの運動をあわせてすすめていかなければいけな いと思います。
佐々木 私は、今後の災害もにらんだとりくみが必要だと思いま す。今回、民医連は大きな役割を発揮しましたが、活動を総括し、教訓をまとめておかないと、次の災害が起きたときに生かせない。被災地で民医連がおこなっ た活動を学術面からも評価し、学会発表などを通じて広げなければと思います。

住み慣れた地で生きることを支えて

長瀬 この本(『被災者に寄りそう医療』)は昨年『元気』新年号に登場した詩人・柴田トヨさんも推薦してくれました。柴田さんは「あなたの心だけは流されないで 不幸の津波には負けないで」という新しい詩を書かれ、その詩が坂総合病院友の会事務所にも掲げられていました。
 不幸の津波には負けない。被災した方々が住み慣れた地で生きることを支える運動と実践を今後も民医連としてやっていきたいと思います。写真・酒井 猛

いつでも元気 2012.1 No.243

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