スラヴ放浪記 強制移住の悲しみ 国境の変更
文・写真 丸山美和(ルポライター、クラクフ在住。ポーランド国立ヤギェロン大学講師)

ヴロツワフの中心部。第2次世界大戦までドイツ領だった
先日、勤務先の大学(ポーランド)の学生とビールを飲みに行った。雑談のなかで数人の学生の祖父母が、現在のウクライナ西部の出身であることを知った。祖父母が生まれた時代は、ウクライナの西部がポーランドの領土だったからだ。
ある学生の祖母は、現在のウクライナのリビウ近郊で生まれ、第2次世界大戦の終戦時は5歳。家族に連れられてウクライナを離れ、クラクフで新生活を始めた。地元の小学校に入ると、同級生に「ウクライナ人」といじめられたという。祖母は「ポーランド語も地域によってさまざまな方言があるけれど、リビウにもリビウ特有のアクセントがあった」と、話していたという。
ポーランドと日本は大きな違いがある。日本は島国で陸続きの国境はない。空襲こそあったが、本州の主要都市が直接、戦場になることはなかった。降伏後も沖縄など南西諸島や樺太、北方領土を除く領土が他国に割譲されることはなかった。
しかし、隣国が陸続きであるとどうなるか。戦争のたびに国境線が変更され、そのたびに住民は翻弄される。
1939年9月、ドイツがポーランド西部に侵攻。その後、旧ソ連が東部に侵攻し、ポーランドの領土は両国の占領で真っ二つに切り裂かれた。さらに、戦後はポーランドの国境線が大きく西へ移動、東部はウクライナに編入され、新しい領土の西半分は旧ドイツ領に達した。
ポーランドの国土が西へ大きく動いたことで、これまで生活していたポーランド人も西への移動を余儀なくされた。所有していた家や土地をウクライナ人に売り払い、家財道具を持って土地を離れた。
主な移住先は、現在のヴロツワフやシュチェチンなどの旧ドイツ領。東から移住者が到着すると、当局が住居を割り当てた。ヴロツワフの博物館の職員によると、同じ通りの建物に、親類家族全員が収まった例もあるそうだ。
国境の変更に伴い、凄惨を極めたのが長年その土地で暮らしていたドイツ人だ。旧ドイツ領の東部に住む彼らは強制的に追放され、それまで築いてきた仕事も家もコミュニティーも失った。
追放の旅は過酷を極め、道中で命を落とした人は200万人以上といわれる。ドイツ人追放はポーランドだけでなく、旧チェコスロバキアやルーマニアなど、かつて占領していたスラヴ諸国でも同様だった。各国で強制移住をさせられたドイツ人は、1650万人と推定されている。
第2次世界大戦で命を落とした日本人は、民間人と軍人合わせて300万人以上だが、ポーランドでは一説では690万人ともいわれている。戦中、ナチスドイツはポーランド人を劣等民族として扱い、多くの民間人が強制労働や病気、拷問などで死亡した。
戦後80年、ポーランド人にとって戦争の記憶は決して遠い過去ではなく、怒りをもって日常的に語られる。
昨夏、旧ドイツ領のオストルダという町で、ドイツ人墓地を見つけた。墓地は荒廃し、ポーランド人によって墓石がこなごなに破壊されていた。
その中にたったひとつ、壊されていない墓石があり、次のような言葉が捧げられていた。「遠く故郷から離れた場所で、戦争のために散り散りとなった地域社会と、亡くなった人々のことを思い出しています」。
かつてこの地で豊かな地域社会を営んでいた人々の深い悲しみが伝わってきた。その隣には、新たな住人となったポーランド人の墓地ができており、色とりどりの花が飾られていた。
日本の歴史教科書は、世界の戦争を単なる国同士の争いとして記述する。しかし戦争がもたらす地域社会の破壊に目を向け、そこに住んでいた人々の悲しみを想像することが大切だと思っている。
いつでも元気 2025.8 No.405
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