戦後80年 いま、語らねば あの日、私が見たヒロシマ
桶田岩男さん(96歳)(北海道・道南被爆者の会)
横川駅前を拠点に救護活動をする賀茂海軍衛生学校の救護隊(岸田貢宜氏撮影/岸田哲平氏提供)
1945年8月6日、
広島に原爆が落とされた。
その直後に救護に向かった桶田岩男さんが、
当時の惨状を語る。
いまから80年前、16歳の私は乃美尾村(現・東広島市)にあった賀茂海軍衛生学校で、衛生兵になるための訓練を受けていました。
朝の体操をしていたときです。空がピカッと光ったかと思うと、「ドーン!」という爆発音が響きました。何事かと辺りを見渡すと、広島市の方角に紫がかったきのこ雲が立ち上るのが見えます。
「広島に新型爆弾が落とされたようだ」と上官から話があり、直ちに出動命令が下されました。1台のトラックに30人ほどが乗り、医薬品を積みこんで約20㎞先の爆心地へ出発。原爆投下から約4時間後の8月6日正午ごろ、広島市に入りました。
そこで目にしたのは、地獄絵以上の惨状でした。見渡す限りの焦土。くすぶる瓦礫の中から聞こえるうめき声。川には無数の死体が流れ、各家庭の防火用水槽には焼けただれた死体が折り重なる―。道端では市民数人が集まり、「この野郎、この野郎」と何かを蹴っています。見てみると、パラシュートを背負った米軍兵士の焼死体でした。
防空壕を見つけ戸を開けると、子どもから大人まで10数人が蒸し焼き状態になっていました。苦しみに顔はゆがみ、胸にはかきむしった爪痕が生々しく残っています。
〝これが地獄というものか…〟と、強烈なショックを受けました。
そして、私たち救護隊員もまた、死の灰に曝されたのです。
「水をください」
爆心地から1・5㎞ほど離れた横川駅前(広島市西区)に救護所を開設すると、あっという間に数千人の被爆者が集まりました。
全身に火傷を負った人。両足を切断された人。ほとんどの人の皮膚が垂れ下がり、中には骨まで見えている人もいます。どこから手をつけていいのか分かりませんでした。
火傷の表面にチンク油を塗り、生理食塩水を注射して応急処置を施しますが、皮膚が溶けていて包帯を巻くことができません。机やいすで急ごしらえしたベッドではとても間に合わず、地面に寝かすほかありませんでした。
助かる見込みのない患者には、形ばかりの処置と「大丈夫だからしっかりして」と声をかけるのが精一杯。「兵隊さん、助けて…」と懇願する声に、胸が締めつけられました。
救護所では「水を、水をください」と、悲痛な訴えがあちこちから聞こえます。しかし軍医は「水を飲ませたら死ぬ。絶対に与えてはいけない」と指示しました。
ある中年の女性は声を出せないほど弱っていましたが、口の動きで水を求めていると分かりました。日が沈んで暗くなり、私はその女性にブドウ糖を飲ませました。
ありがとう―。
と、口が動いたように見えた30分後、息を引き取りました。
いま思えば、みんなに水をあげればよかった。助かる見込みのない人ばかりだったのですから。
青白い光
救護所には、家族と離ればなれになった多くの子どもも集まりました。親の名前を聞こうにも、自分の名前も言えないほどのショックで、まるで夢遊病者のようにふらふらとしています。この世で一番恐ろしく、世界で誰も経験していない出来事が降りかかったのですから、無理もないことです。
夜になり、瓦礫のそこかしこに青白い光が見えました。死体から発生したリンが光る、俗に言う火の玉だったのでしょう。不気味な感じよりも、何とも言い表すことのできない悲しみに覆われたことを覚えています。
救援活動2日目の朝、重症患者だけでなく、ほとんどの人が亡くなりました。駅前広場は死体の山となり、トラックに積まれて運ばれていきます。あまりの患者の多さに生理食塩水が底をつくと、海水を蒸留して代用しました。今では考えられないことですが、その時はやむを得なかったのです。
3日目、寝食も忘れて活動をしていると、正午頃に突然撤退命令が下されました。上官は「放射能により原子病になる恐れがある」と言うのです。このときに初めて、原子爆弾による攻撃だったと知りました。後続の救援隊と交代する際、「兵隊さん、助けて」の声がいつまでも耳に残りました。
生き地獄を見たものとして
広島で救護活動に身を投じた衛生学校の生徒144人が、防護服も何もなく放射能に体を曝しました。戦後、同期会を作りお互いの健康を確認してきましたが、被爆由来のがんで若くして亡くなった人、病の床に伏す人、多くの同期生が健康被害に苦しんでいます。私自身、白血球数は健康な人の3割程度で、年2回の被爆者健診を受けています。
昨年、日本被団協がノーベル平和賞を受賞。私だけでなく、被爆者がいままで頑張ってきたことが少し報われたという気持ちです。私が副会長を務めていた北海道被爆者協会は今年4月、高齢化を理由に解散しました。現在は、被爆者だけでなく被爆2世と支援者が加わる「北海道被爆者連絡センター」として活動しています。
あの日から80年、被爆者は年々少なくなっています。しかし、あの生き地獄を見た私には、語らねばならない責任があります。世界中の人々が人種や宗教やあらゆる差別を乗り越え、一丸となって核兵器を廃絶しなければ、地球は滅びます。
(桶田さんの手記を編集部で加筆、修正しました)
桶田岩男(おけた・いわお)
岩手県生まれ。広島に原爆が投下された際、衛生学校の生徒として救援活動に従事し被爆。戦後は函館市に移住し、不動産会社を設立。元北海道被爆者協会副会長。函館市在住。
いつでも元気 2025.8 No.405
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