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いつでも元気

いつでも元気

遺骨は今も海の底

文・新井健治(編集部) 
写真・野田雅也 

海面から顔を出す2本のピーヤ この下に長生炭鉱がある

海面から顔を出す2本のピーヤ この下に長生炭鉱がある

山口県宇部市の海底炭鉱「長生炭鉱」をご存じですか? 
1942年の水没事故で、
当時働いていた朝鮮人136人を含む
183人がいまも海の底に眠ったまま。
遺骨を祖国に戻そうと、
市民団体による潜水調査が始まりました。

 「アイゴー」。海に向かって泣き叫ぶ韓国の遺族。瀬戸内海に面した宇部市の床波海岸。穏やかな海面から顔を出す2本のピーヤ(坑道の排気・排水筒)は、まるで犠牲者の墓標のようだ。
 長生炭鉱の坑道は海底からわずか37mと、水圧に耐えられない違法操業だった。事故前にもたびたび漏水が起きていたにもかかわらず無視して採掘。危険な現場で日本人労働者が集まらず、炭鉱会社は朝鮮人を大量に動員した。
 1942年2月3日の午前9時半ごろ、沖合約1㎞の地点で落盤。大量の海水が流れ込み、労働者は真冬の寒さのなか生きたまま坑道に閉じ込められた。脱出できた人はわずか十数人。炭鉱会社は救助はおろか調査もせず、事故直後に炭鉱の入り口(坑口)を封鎖。183人を闇に葬った。

日韓共同の潜水調査

 戦後、事故はタブーになり、地元でもその存在は忘れられた。歴史の事実を明るみに出したのが市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(刻む会)。同会の井上洋子共同代表は「私たちのすぐ目の前に無念の死を遂げた遺骨が眠っている。そのままにしておくわけにはいかない」と言う。
 刻む会は事故の全容解明に向け韓国の遺族に手紙を送って証言を集め、1993年から毎年、遺族を招いて追悼集会を開催。2013年には海岸沿いに2本のピーヤを模した追悼碑を建立した。昨年9月には独自の調査で坑口を探し当て82年ぶりに掘り起こした。
 坑口が見つかったことで本格的に遺骨を探す潜水調査にも着手。ダイバーの伊左治佳孝さんが坑口や、海岸から295mの地点にある沖のピーヤから潜って調査を進めている。伊左治さんは洞窟など閉鎖環境の潜水で日本の第一人者。「ご遺族は高齢になっており、残された時間は少ない」と自ら協力を申し出た。今年6月まで4次にわたって調査をしたが、視界が悪かったり、天井が崩落して先に進めない箇所もあり遺骨はまだ見つかっていない。
 4月には韓国から2人のダイバーが参加、初めて日韓共同で調査した。女性ダイバーの金秀恩さんは、普段は考古学や生物学の仕事で世界中の洞窟を探検している。「歴史的に意味が大きい活動。必ず遺骨を発掘して祖国に帰してあげたい」と言う。男性ダイバーの金京洙さんは「想像以上に視界が悪く、遺骨を見つけられずに悔しい。また挑戦する機会があれば、最善を尽くしたい」と話した。

遺族の思い

 調査には毎回、韓国から大勢の遺族が駆け付ける。宋永順さん(72歳)は、母方の祖父が36歳で犠牲に。戦後は貧困のなか苦労して宋さんを育てた母も、8年前に亡くなった。
 「坑口をのぞくと、おじいさんと気持ちがつながるような気になる。遺骨が見つかるまで、私の心には重い石が詰まったまま」と言う。この日は母の形見の青いジャンバーを着てきた。「お母さんにも見せてあげたい」。
 在日コリアンの藤井潔さん(76歳)は、事故で祖父と大叔父の2人を亡くした。祖父はいったん坑口から外に逃れたものの、弟である大叔父を探して再び坑道に引き返し、帰らぬ人に。「仲の良かった兄弟と聞いている。遺骨を故郷に帰してあげたい」と言う。
 韓国遺族会会長の楊玄さん(76歳)は「遺骨を発掘する歴史的瞬間を皆さんと共有している。犠牲者の尊厳を回復することは、日韓関係の未来にとっても望ましいことではないか」と訴えた。

国策が招いた人災

 長生炭鉱の水没事故の特徴は国策が招いた人災であること、朝鮮人の強制労働の象徴であることだ。太平洋戦争の開戦は、水没事故の2カ月前の1941年12月8日。当時から坑道では漏水が起きていたにもかかわらず、戦時の石炭増産のため、無理して操業を続けた。
 日本政府は戦争で不足した国内の労働力を補おうと、植民地だった朝鮮半島から約80万人を強制動員。長生炭鉱にも1258人が連れてこられた。
 労働は過酷を極めた。朝鮮人労働者は高い塀に囲まれた監視付きの小屋で、食事も満足に与えられずに長時間働かされた。逃亡が相次ぎ、見つかって日本人に殺された人もいた。刻む会制作の「証言・資料集1」(2011年発行)には「3人で逃げたが捕まった。2人は30歳以上だったためか、殴り殺された。18歳の私は木の棒でしこたま殴られた」(生存者の金景鳳さんの証言)とある。

 刻む会は8月6~8日に改めて潜水調査を行う。6月の調査では沖のピーヤの下の旧坑道(2ページ地図参照)から主坑道に続く側道が見つかっており、遺骨の発見につながる可能性が高い。

長生炭鉱 1932年から操業。宇部炭田の中で最も朝鮮人が多く「朝鮮炭鉱」とも呼ばれた
長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会 1991年設立。水非常は炭鉱用語で水没事故のこと


歴史が動き出した

 国策で強制動員した朝鮮人が国策で起きた事故で亡くなった。本来は戦後すぐに、政府が主導して弔うべきだ。刻む会の設立は1991年。それから34年、会は自ら資金を集めて調査し、遺骨の発掘まで取り組む。共同代表の井上洋子さんは「あきらめたことも、嫌になったこともない」ときっぱり語る。
 92年から韓国の遺族と交流を重ねた。父親や祖父を亡くし、戦後も苦労してきた人生に触れることで多くの学びがあった。多額の費用がかかる潜水調査は、クラウドファンディング(ネット上の募金)で資金を集める。「全国の市民の皆さんの後押しがあって活動できる」と井上さん。
 調査には若者も協力する。坑口近くで遺族や報道関係者の受付を担当した中学2年生は、隣の山口市から来た。「K―POPなど韓国の文化が好きで協力した。日本の植民地支配のことも学びました」と話す。東京からやって来た高校1年生は「社会に関心がない友人が多い。若い世代はもっと歴史を知る必要がある」と語る。
 刻む会は地元の中高校生向けに事故を紹介するフィールドワークも開催。井上さんは「歴史を学んだうえで、外国人を差別できますか?」と問いかけている。

時代に危機感を持つ

 日本政府は協力はおろか、現地に来ることさえない。ゴミ置き場の下に埋もれていた坑口を、業者を雇いパワーシャベルで掘り起したのも刻む会だ。
 刻む会事務局長の上田慶司さんは「坑口が開くと同時に歴史が動き出した。強制労働の現場が目の前に現れた」と指摘する。
 国内では在日コリアンやクルド人らに対し、ヘイトスピーチが後を絶たない。7月の参院選では、公然と外国人排斥を掲げる政党が支持を伸ばした。「いまという時代に危機感を持つ人たちが坑口に集い、全国から資金援助もしてくれる」と上田さん。
 会は現地で活動するだけでなく、東京にもたびたび訪れ厚労省や外務省と交渉。国会議員にも訴えてきたが、政府は「安全性に懸念がある」「遺骨の位置が不明」と何もしない。井上さんは「遺骨が見つかれば政府は動かざるを得ない。犠牲者の尊厳を回復しようという市民の誠意が、あと一歩で遺骨にたどり着こうとしている。必ず遺骨を故郷にお帰しする」と語る。

いつでも元気 2025.9 No.406