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いつでも元気

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60回目の盆おどり

文・八田大輔(編集部) 写真・森住卓

8月9日に開催された「矢臼別平和盆おどり大会」。
1965年から続く盆おどりは、北海道東部の軍事演習場の中で行われている。
脈々と受け継がれる平和運動の背景と、北の反戦地主の物語を紹介する。

 北海道東部、根室・釧路地域にひろがる根釧原野。火山灰土壌の痩せた土地はかつて、不毛の原野と呼ばれた。いまでは広大な牧草地で牛馬がのんびりと草を食む、日本有数の酪農地帯だ。
 この原野のほぼ中央、別海町と厚岸町、浜中町、標茶町の4町にまたがる一帯に、陸上自衛隊矢臼別演習場がある。総面積約1万6800ヘクタール。東京の山手線の面積が2個すっぽり入ってまだ余る、日本最大の軍事演習場だ。今年9月にも米海兵隊と自衛隊の大規模共同訓練が実施され、最大射程300㎞のHIMARS(高機動ロケット砲システム)が展開した。
 加速する日本の軍拡路線の最前線であり、昼夜を問わず砲声がとどろくこの場所で、矢臼別平和盆おどり大会は毎年行われる。1965年の第1回から会場となっているのが川瀬牧場。開拓農家の故・川瀬氾二さんが暮らした土地だ。

心地よい空気

 大地のむこうに日が沈み、すっかり暗くなった頃、夜空に百発以上の花火が打ち上げられた。たいまつを手にした子どもたちがかがり火に点火し、盆おどりが始まる。
空にとどろけ
矢臼のコリャ 太鼓よ
平和ナー 平和勝ちとる コリャ
ヤレサナー その日までよ
(矢臼別盆唄・6番の歌詞)

 「緑の大地を砲弾で荒らすな」「平和に生きる権利を!」などの看板を掲げたやぐらで、太鼓が打ち鳴らされ盆唄が唄われる。その周りで人びとが輪をつくり、ベテランも子どもも、照れくさそうな若者も、思い思いに踊る。
 60回という節目に全国各地から400人が集い、オンラインでも400人が視聴。ステージでは合唱や演劇が会場を盛り上げ、地元のシンガーソングライター、菊地哲史さんが「矢臼別のうた」を熱唱(次ページに歌詞)。沖縄からの参加者は三線の音色で辺野古と矢臼別をつないだ。
 森の中の原っぱで、かがり火が照らす盆おどり。軍事演習場のど真ん中に、童話の世界のような時間が流れる。気負いも堅苦しさもない、この心地よい空気が生まれた背景には、川瀬氾二さんの生涯が深く関わっている。

不毛の原野へ

 川瀬さんは1926年に岐阜県の養蚕農家の六男として生まれた。終戦半月前に赤紙が届き、軍へ入隊。戦後は建築現場の下働きなどの仕事を転々とし、その日暮らしの毎日を送った。
 友人や兄弟が定職につくなかで肩身の狭い思いをしていた時、北海道東部の開拓農家を募集する新聞広告を目にする。戦後復興の一環で、根釧原野を農業基地とする国営事業が進められていたのだ。
 52年4月、25歳で別海村(現・別海町)に入植。川瀬さんはいわば、国策で始まったプロジェクトの先発隊だった。不毛の原野に簡素な小屋を建て、手作業で木の根を切った。冬は気温がマイナス30℃まで冷えこみ、吹雪の時は雪が隙間から入り小屋の中に積もる。それでも開墾を進めた。
 入植4年目に結婚。入植者も徐々に増えた。農耕馬の放牧や養鶏でようやく生活も安定しかけた。しかし、日本政府は実戦的な軍事訓練ができる広大な土地を求め、矢臼別演習場の設置を決定。入植して10年後のことだった。

権力との攻防

 演習場の設置に反対の声をあげる人々もいたが、借金と生活苦にあえぐ開拓農家も多く、執拗な買収工作で84戸がこの地を去った。
 川瀬さんも動揺したが、反対派の人々の説得もあり買収を拒否。残ったのは川瀬さんと杉野芳夫さん(故人)の2戸のみとなった。
 演習場設置決定から3年後の65年8月14日、周辺の農民組合などが中心となり、空をにらむ母子像を彫刻した平和碑が建立。同日、第1回平和盆おどりが開催された。
 77年に杉野さんがやむなく離農すると、最後の砦となった川瀬さんを追い出す攻撃は激しさを増す。行政は離農跡地の取得や住宅建設を妨害。自衛隊は土地の周りに鉄線を張りめぐらせた。さらに、25年続けた馬の放牧を違法と独断し、牧場の柵を撤去した。
 川瀬さんは教職員組合など支援者の協力も得ながら粘り強く抵抗。牧柵の撤去と修復をくり返す根比べは、自衛隊の「戦意喪失」で川瀬さんに軍配が上がる。住み続けることが、“たたかい”だった。

「なんとかなるべ」

 「北の反戦地主」とも呼ばれる川瀬さんの人柄は朴訥そのもの。
 「酒も飲まず、みんなの話を黙って聞いている人。スピーチも苦手で、逃げないように捕まえておくのが私の仕事でした」と語るのは吉野宣和さん。67年に国産初のロケット弾「R30」の実射訓練が始まったことを機に結成した、矢臼別平和委員会の元事務局長だ。
 「川瀬さんの口癖は『なんとかなるべ、とにかくやってみれ』。楽天的で気どらない人柄が、人々を呼び寄せたのかもしれません」と吉野さんが言うように、若い世代も次々とこの地を訪れた。
 昨年5月から矢臼別の住人となった寺川真幸さんは、「教職員組合の企画がきっかけで矢臼別に通い、この場所が好きになった」と、たたかいを引き継いだ。「風呂がないのはキツいけどね」と笑う顔に悲壮感はない。
 大会事務局長の古川晃男さんは現役の小学校教師。「自分も楽しみたいし、平和を絶やしたくない」との気持ちで大会を運営。「子どもを育てることと平和を守ることは同じ」と感じている。
 幼い頃から矢臼別に通う古川さんの長男、拓生さんは、民医連の道東勤医協・釧路協立病院の看護師だ。「平和の火を灯し続ければ、時代が変わっても盆おどりはなくならない」と穏やかに力強く語る。

帰ってくる場所

 2009年、川瀬さんは82歳でこの世を去った。
 川瀬さん一家が暮らした地に建つ矢臼別平和資料館には、開拓と平和運動の歴史が刻まれている。その一方、毎日のように行われる自衛隊の軍事訓練には、矢臼別平和委員会のメンバーを中心に監視の目が注がれる。矢臼別では戦争と平和が鋭く対峙している。
 60回大会に参加した道東勤医協の職員と家族は約50人。その中の一人、釧路協立病院事務の鍋田聖華さんは今回が3回目の参加。「ここに来る前は不安もあったけど、続けて参加するうちに楽しみに変化してきました」と笑う。「通うこと」もまた、たたかいの一つといえる。
 主治医として川瀬さんを看取った黒川聰則さん(道東勤医協理事長・北海道民医連会長)は、花火師として20年近く大会に参加している。「見る人によって感じ方が違うのが花火の魅力。恋人や家族に思いをはせる人、平和の願いを花火に託す人もいます」。
 毎年最初の花火を打ち上げる時、黒川さんはいつもこう思う。
 「川瀬さん、ご苦労様。今年も帰ってきたよ」。

いつでも元気 2025.11 No.408