旅するわらべうた 手毬唄の発祥地を歩く
文・写真 片岡伸行

船場橋のたもと、熊本中央郵便局前にあるタヌキの像(熊本市中央区)
かつて庭先や路地裏から、
毬をついて遊ぶ子どもたちの
歌声が聴こえてきました。その歌声も
今ではすっかり消えてしまったようです…。
手毬唄発祥の地を歩いてみます。
あんたがたどこさ (作者不詳)
あんたがたどこさ 肥後さ
肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ せんばさ…
せんば山には 狸がおってさ
それを猟師が 鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食べて(食って)さ
それを木の葉で ちょっとかぶせ
(ちょいと隠す)
手毬は主に女子の遊びとして、江戸時代中期(18世紀)以降に盛んになり、明治時代中期(19世紀末)頃からは、ゴム毬の普及でさらに一般に広まりました。
毬を曲芸の道具に使い村々を巡った流浪の旅芸人の唄が、子どもたちの間に伝わり各地へ広まったとの説があります。
熊本か川越か
問答形式の手毬唄として広く知られるのがあんたがたどこさ(別掲に1番)。正式名は肥後手まり唄ですから、肥後国(現在の熊本県)発祥の唄かと思えば、埼玉県川越市との説もあります。
川越市小仙波町にある寺院・喜多院の小高い森が「仙波山」と呼ばれました。明治維新時の戊辰戦争(1868〜69年)の際、ここに維新政府軍である薩長(薩摩藩と長州藩)連合軍が駐屯し、その兵士と地元の子どもとの問答が唄になったという説です。とすれば、明治維新以降に関東から広まった唄になります。
しかし、歌詞を見ると、〈熊本どこさ〉と聞かれた兵士が〈せんばさ〉と答えながら、それ以降は子どもが地元の「仙波山」の話をしていることになり、前後の脈絡が不自然。また、喜多院に肥後藩の兵士が駐屯していたという史料も見当たらないようです。
船場山と肥後手まり
一方、肥後国では加藤清正による熊本城築城(17世紀初め)の際、現在の坪井川(熊本市)を内堀とする大規模な河川改修がおこなわれました。改修では右岸に水害対策の小高い土居(堤)を築造。そこが「船場山」と呼ばれ、タヌキの住みかになりました。船着場となった場所は船場町、川も船場川と呼ばれました。
熊本地方では、次のような歌詞も。
〈船場川には エビさがおってさ
それを漁師が網さでとってさ
煮てさ 食ってさ うまさがさっさ〉
熊本にはまた、江戸時代に生まれた「肥後手まり」の伝統があります。ヘチマを芯にし、刺繍糸で幾何学模様を施す美しい手毬。城勤めの奥女中たちが作り始め、肥後の女性に受け継がれました。やはりこの手毬唄の舞台は、ここ熊本なのでしょう。
ただ、元唄が川越に入ると、子どもたちが「船場山」を、同じ読みの「仙波山」にかけて、ゴム毬の普及とともに歌い広めた可能性もあるかもしれません。
良寛さんの唄?
江戸から全国に広がったのが〈猫を紙袋にへし込んで ポンと蹴りゃニャンとなく〉と歌われる山寺の和尚さん。今なら動物虐待と非難されそうな歌詞です。メロディは1937年(昭和12年)に服部良一(1907−93年)が作曲したとされますが、元唄があったのでしょう。
「和尚さんと毬」で思い浮かぶのは江戸時代後期の禅僧、良寛さん(1758−1831年)です。
越後(現在の新潟県三島郡出雲崎町)生まれの良寛は、備中(岡山県倉敷市)の円通寺で修行後、10数年に及ぶ諸国行脚の旅に出ます。土佐(高知県)を訪れたとの説があり、高知地方には「山寺の和尚さんは良寛の唄を歌い替えたもの」との伝承が残ります。ただ…。
〈この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし〉
純朴な子どもの中に、仏の心を見た良寛さんはこんな心温まる歌を残しています。紙袋に入れた猫を蹴る姿などちょっと想像できませんね。
(つづく)
かたおか・のぶゆき
ジャーナリスト、作家。著書に本誌で連載した『神々のルーツ—「祈りの場」から見た古代日本』、近著に『神々のクロニクル—神社と天皇の内実』(いずれも新日本出版社)がある
いつでも元気 2026.3 No.412
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