旅するわらべうた 子守り娘たちの哀歌
文・写真 片岡伸行

熊本県球磨郡五木村の役場前に立つ「五木の子守唄像」
わらべうたとともに、日本各地で古くから歌い継がれてきた子守唄。単に赤ちゃんを寝かすためだけでなく、唄には子守り娘たちの切実な思いが込められています。
五木の子守唄(作者不詳)
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
盆が早よくりゃ 早よもどる
おどま勧進かんじん あん人たちゃよか衆
よか衆ゃよか帯 よか着物
おどんが打死だときゃ 誰が泣ゃてくりゅか
裏の松山ゃ せみが鳴く
せみじゃござらぬ 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる
おどんが死んだなら 道端ゃいけろ
ひとの通るごち 花あげる
辛いもんだな 他人の飯は
煮えちゃおれども のどにたつ
江戸から各地に広まり、子守唄のルーツになったのが江戸子守唄。次の歌詞が知られています。
〈ねんねんころりよ おころりよ
ぼうやはよいこだ ねんねしな
ぼうやのお守りはどこへ行った…〉
〈お守り〉とは、子守りをする少女のこと。貧しい家の娘は7、8歳になると食いぶちを減らすために裕福な家へ子守奉公に出され、14、15歳ごろまで他家に住み込んで子守りをしました。江戸時代にはすでに慣習となっていたようです。
食事は与えられても給金なし(タダ働き)という例も少なくなかったようですから、子守唄は過酷な育児労働の中で生まれた子守り娘たちの労働歌とも言えます。また、赤ちゃんをあやす・寝かすだけでなく、親元を離れて暮らす自らの寂しさを癒やす哀歌でもありました。
〈ねんねこしゃっしゃりませ〉と歌われる岡山県井原市発祥とされる中国地方の子守唄や京都府の竹田の子守唄などが知られていますが、子守り娘たちの心情を端的に表すのが熊本県球磨郡五木村に伝わる五木の子守唄です。
私が死んだら道端に埋めて…
五木の子守唄の歌詞には数多くのバージョンが残されています。ここでは代表的な歌詞の一つ(別掲)を取り上げます。
〈おどま〉とは「私は」、〈盆ぎり〉とは「お盆まで」という意味の熊本弁。子守り娘はお盆が来たら年季が明けて里へ戻るようです。〈勧進〉とは寺院などの再建のために金品を募ることですが、ここでは「物乞い」という意味でしょう。私は物乞い同然だけど、あの人たち(奉公先の人たち)はよい帯や着物を身につけている、と自らの境涯を嘆きます。
歌詞の3番以降は、悲哀にあふれます。
私が死んでも誰が泣いてくれるだろう、裏の山で蝉が鳴くだけ。蝉だけじゃなく妹も泣くだろうな。心配になるから泣かないでね。私が死んだら道端に埋めてよ。そこを通る人が花をあげてくれるから…。
歌詞には貧困と差別の時代が映り込んでいます。
かつて「全国子守唄サミット」という催しがありました※。子守り娘たちの時代と、その思いを歌い継ぐのは大切なことです。というのも、彼女らの苦悩と悲哀は決して過去のものではないからです。女性差別、性売買、家事・育児労働の偏重など、さまざまな事象に形を変えて現代に引き継がれています。
「子守唄は人の原点」
子守唄は米国の黒人奴隷の労働歌から生まれたブルースと似ていますが、決定的に異なる点もあります。「NPO法人日本子守唄協会」(東京都葛飾区)の西舘好子理事長は「それは、歌われる側(赤ちゃん)がその唄を歌えないことです」とし、こう続けます。
「赤ちゃんは歌えないからこそ、身体がリズムとして憶えます。抱っこの安心感、匂いや肌触りと一緒に、そのリズムが身体に刷り込まれてゆくのです。だから子守唄は人の原点であり、最初の信頼の証し。その子の生涯にかかわる大事な宝物なのです」。
苦悩と悲哀の裏側で、いのちを育む子守歌。昔も今も育児という重労働を支えています。
(つづく)
※五木村をはじめ静岡県沼津市、熊本県天草市、岡山県井原市、長崎県島原市、和歌山県岩出市、大分県佐伯市の7市村持ち回りで1987年に第1回を開催。2016年の第28回を最後に終了した
かたおか・のぶゆき
ジャーナリスト、作家。著書に本誌で連載した『神々のルーツ—「祈りの場」から見た古代日本』、近著に『神々のクロニクル—神社と天皇の内実』(いずれも新日本出版社)がある
いつでも元気 2026.7 No.416
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