水俣 いのちのリレー
文・八田大輔(編集部)
写真・馬場敬子

不知火海を見下ろす丘に作られた
鎮魂のモニュメント「水俣メモリアル」
公害の原点、水俣病。
最前線で患者と向きあった板井八重子医師が語る
〝いのちのリレー〟とは。
1956年の公式確認から70年のいま、
改めて、水俣病について考える。
ぼくのお母さんは、頭がいたくてフラフラと、体がとてもつかれる病気です。(中略)お母さんは、魚をいっぱい食べて病気になりました。だからぼくは魚がきらいになりました。
これは、熊本県民医連が1985年に発行した『患者とともに歩んで―水俣病と民医連―』に記された作文の一節。水俣病に苦しむ母を案じながらも、我慢を強いられる少年の悔しさがつづられている。
水俣病―。工場から排出されたメチル水銀(有機水銀)が魚介類を汚染し、それを食べた人が発症した中毒症。手足のしびれ(感覚障害)や視野狭窄、運動失調、頭痛、味覚障害など症状はさまざま。激しいけいれんを起こして亡くなる劇症型、症状が徐々に現れる慢性型、母親の胎内でメチル水銀の影響を受けた胎児性患者もいる。
56年に公式確認され、当初は「原因不明の奇病」と呼ばれたが、59年に熊本大学が「有機水銀が原因」と結論づけた。
公害の原因はチッソ(現・JNC)。水俣市の工場でプラスチックの原料になるアセトアルデヒドを生産、その製造過程で発生したメチル水銀を不知火海に垂れ流していた。
チッソによる海洋汚染は、アセトアルデヒド製造工場が操業停止する68年5月まで続いた。操業停止を待って初めて、政府は同年9月に「水俣病はチッソによる公害病」と認定。公式確認から12年もの歳月が流れていた。
水俣診療所の開所
公害認定後もチッソは加害責任を認めなかった。地域経済を支配する大企業に物を言えない状況のなか、患者と家族は正当な補償を求め、69年に水俣病第一次訴訟を起こす。
熊本県民医連は当初から患者と手を携え裁判を支援。同時に藤野糺医師(水俣協立病院名誉院長)を先頭に、潜在的水俣病患者の掘り起こし検診を展開した。
水俣病第一次訴訟は、73年3月に原告側が全面勝利。補償の対象や範囲など不十分な点もあったが、チッソの責任を認め、交渉の重い扉を開く大きな前進だった。
74年1月、「安心してかかれる医療機関を」という患者の願いを受け、チッソ正門前に民医連の水俣診療所が開所。藤野さんと看護師4人、事務3人の船出だった。
患者は右肩上がりに増え続けた。水俣病の患者はもちろん、他の内科疾患を抱えた多くの患者が受診し、熊本県内の医師や全国の民医連からの支援で対応した。
常勤内科医の確保が課題となり、藤野さんは全国を奔走。東京の氷川下セツルメント病院で内科研修をしていた板井八重子さんのもとへ、患者を伴って訪問した。
求められるところへ
「藤野先生のお話を聞いたとき、即座に『はい』とは言えなかった」と、板井さんは当時を振り返る。
医師人生を歩み始めたばかりの自分が、水俣病というあまりに大きな公害を前に何ができるのか。ためらっていた背中を押したのは、夫の優さんの一言だった。
「『求められるところに行くのは、いいことなんじゃない?』と言われて、それなら自分にできることをやってみようと思いました」。
75年10月、司法試験の勉強中だった優さんを東京に残し、水俣診療所に着任。当初は2年間のつもりで、その後は優さんの故郷、沖縄に移住する予定だった。
「水俣市はチッソの〝企業城下町〟。水俣病であることを公言できない空気があった」と板井さん。診療所から遠いバス停で降り、人目を忍んで受診する患者もいた。
「あの診療所に行くと、みんな水俣病にされる」「水銀を注射している」「病気が治ったという話を聞いたことがない」―。地域住民から誹謗中傷を受けることもあったが、板井さんは懸命に患者と向きあい、信頼を得ていった。
着任から2年が経ち、司法試験に合格して水俣に迎えに来た優さんに、板井さんはこう告げた。
「水俣を去ることはできない」。
板井さんの心を動かしたのは、ともに働く仲間たちの存在だった。
「看護師は『○○さんがこんな反応をしてくれたんですよ』と、訪問看護の様子を報告してくる。ケースワーカー、栄養士、事務、全員が患者さんのために一丸となっている。そんな人たちと働けることが、心地よかったのだと思います」。
診療所は78年に水俣協立病院に発展。板井さんは水俣で17年間を過ごす。その後も、くすのきクリニック(熊本市)所長、県連会長などを担いながら水俣病にかかわり続けた。
優さんも熊本に移り、弁護士として患者を支援。ハンセン病や川辺川ダム問題など、国家権力から人権を守るためにたたかい続けた。
民医連だからできた
板井さんの大きな仕事の一つが、メチル水銀による妊娠異常の研究だ。「水俣病発生地域には流産や死産が多いのではないか?」。板井さんをはじめ職員たちは漠然と感じていたが、メチル水銀との因果関係は調査されていなかった。
自身も2児の母である板井さんは、妊娠異常の実態調査(84年、87年)を決意。調査対象は約350人。水俣協立病院の職員は診療後の夜間や休日を使い、一軒一軒訪ね歩いて聞き取りを行った。
「職員の献身的な協力と、藤野先生たちが積み上げた地元の信頼なくしては、調査は不可能でした。協立病院だから、民医連だからできたと思っています」と板井さん。調査の結果、メチル水銀濃厚汚染地域の異常妊娠率が、他よりも明らかに高いことが証明された。
2001年、水俣市で開かれた国際水銀会議で調査結果を報告。日本政府は水銀規制強化に後ろ向きだったが、国際的な潮流もあり、05年以降、母子手帳にメチル水銀摂取の注意喚起が掲載されている。
「母子手帳の記述は大きな成果。でもその背景に水俣の多くの生まれなかったいのちと、母たちの悲しみがあることも知っておいてほしい」と、板井さんは強調する。
「消えた胎児性水俣病患者」のいのちは母たちの記憶に刻まれ、板井さんたちの手で記録され、未来のいのちを守った。〝いのちのリレー〟が受け継がれたのだ。
対立よりも対話を
神奈川学園(横浜市)の生徒は2001年から毎年、水俣市でフィールド学習を行っている。板井さんは〝いのちのリレー〟について語り、水俣病の教訓は何かと問いかける。
「チッソが排水を続けたのは、人命よりも利益優先の企業体質と、高度経済成長を推進したい国策があったから。さらに、アセトアルデヒドを作る工程でメチル水銀ができることも、メチル水銀が人体に有害であることも、チッソは1932年の製造開始時点で海外の論文を通して知っていた。それを隠し続けたことが一番の問題なのです」。
住民の健康といのちはないがしろにされ、〝魚湧く海〟と讃えられた水俣湾は埋め立てられた。水俣病を巡るさまざまな意見の対立は、今も残っている。
「絡まった糸をほどくには、対立ではなく対話が必要。意見が違っても、必ず一致点は見つかります」と希望を捨てない。
「水俣には、水俣病のケアで培われた医療・福祉・介護のネットワークがある。いつか世界中から人が訪れる、地域包括ケアシステムのメッカにしたい」。〝公害のまち〟水俣が〝ケアのまち〟と呼ばれる日を、板井さんは夢見ている。
患者が、家族が、医療者が、そして失われた多くのいのちが紡いできた水俣病の記憶。記憶を伝え続けること、風化させないことが、次の公害病を防ぐ唯一の方法だ。
〝いのちのリレー〟のバトンは、いま、あなたの目の前にある。
憎んだ父は水俣病だった

今年2月、さいたま市で講演した
光栄さん(撮影・五味明憲)
埼玉県深谷市に住む光栄みほ子さんにとって、
父親は憎しみの対象だった―。
水俣病は本人のみならず、
家族にも暗い影を落としていた。
光栄さんの父は1938年生まれ。8歳からの10年間を水俣市で過ごし、高校卒業後に県外へ。母と出会い結婚した際、水俣出身であることは伏せていた。その後、2女をもうけ埼玉に家を構えた。
ごく普通の家族の生活は、光栄さんが10歳の頃に一変する。ボタンを留められないほどの手のしびれと頭痛で父が失業。家に引きこもり酒とタバコに溺れた。子煩悩だった父は些細なことで怒り狂い、給食費は酒代に消えた。
自暴自棄になっていた高校時代、担任の勧めで「一日看護師体験」に参加。民医連の王子生協病院(東京都北区)で温かく迎えられ、幼い頃の看護師になる夢を蘇らせる。
同院に就職すると同時に実家を離れ、父とはますます距離ができた。尊敬できる先輩、信頼できる仲間に囲まれ、17年が過ぎた。
2014年、水俣で行われた掘り起こし検診※に参加。父の故郷であり親族も住んでいたが、疎遠だったので連絡はしなかった。
検診から戻り、水俣に行ったことを伝えるために母に電話すると、父が数年前に水俣病被害者手帳を取得したことを知らされた。
頭痛、手足のしびれ、怒りっぽさ。何を食べても「味がしない」と言い、熱すぎる風呂に入っていた父。光栄さんの中で、父と水俣病が結びついた瞬間だった。
看護師なのに何で気づかなかったんだ。父を憎み続けた時間は何だったんだ―。さまざまな感情があふれ、受話器を握ったまま膝から崩れ落ち、声をあげて泣いた。
この頃から父の健康状態は悪化。介護をするために、光栄さんは病院を退職した。親子としての関係は破綻していたが、一人の人間として最期まで向きあうと決めた。
19年に父は亡くなった。最期の数カ月は「ありがとう」という言葉だけを繰り返し、驚くほど穏やかな顔をしていた。
父の死から6年後、光栄さんは再び水俣を訪れた。そこで初めて知る水俣病の歴史や、自分のルーツに衝撃を受けた。そして、水俣で暮らす人も、水俣から離れて暮らす人も、それぞれの苦悩があることも知った。
自らの出身も、心身の苦しみも、知られることを恐れた父の人生とは何だったのか。人間とは、尊厳とは、いのちとは何か。次々と湧き上がる〝問い〟を、自分の中に留めておくわけにはいかなかった。
水俣病患者の家族としての経験を、次世代に語り継ぐ決意をした光栄さん。11月に東京で開催される「水俣病70年展」にも登壇する。水俣から、そして父から受け取った記憶を、未来へつなげるために。
掘り起こし検診:患者団体と民医連が協力し、未救済の潜在的水俣病患者の発見を目的にした検診活動。東京や愛知、大阪、北海道などでも実施された
水俣病70年展
2026年11月25日(水)~12月3日(木)
渋谷ヒカリエ(渋谷駅徒歩3分)にて開催
問い合わせは「水俣フォーラム」まで
電話:03-3208-3051
e-mail:
光栄みほ子さんは11月29日にライターの武田砂鉄さんと対談予定
いつでも元気 2026.10 No.419
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