スラヴ放浪記 ナチスから守れ! 絨毯の数奇な運命
文・写真 丸山美和(ルポライター、クラクフ在住。ポーランド国立ヤギェロン大学講師)

ヴァヴェル城にある想像上の動物をモチーフにした絨毯
善と悪、永遠の闘いをダイナミックに描く
筆者が暮らすポーランドのクラクフで、市の認定歴史ガイドを務めるトマシュから「めったに公開しないものが見られる。一緒に行こう」と誘われた。行き先はヴァヴェル城。城をひと言で表すと「16世紀の栄華が詰まったポーランドの誇り」だ。
16世紀、ポーランドはリトアニアと連合王国を築き、領土も経済も強大な大国だった。クラクフは当時のポーランド王府で、城は歴代の王の居城。城内の大聖堂では王の戴冠式や埋葬が行われ、広間には目もくらむような豪華で大きな絨毯がある。その絨毯が一般に公開されたのだ。
「絨毯には壮大な歴史が秘められているんだよ」と、トマシュは興奮気味。なんでも200年にわたって世界を彷徨い、奇跡の生還を果たしたのだという。
絨毯は1550年代にポーランド王国を統治したジグムント2世アウグストが、世界一の技術を誇ったベルギー・ブリュッセルの工房に依頼して作った。羊毛と絹、そして銀糸と金メッキ糸で織られ、まさに豪華絢爛。約160枚も制作され城の内部に飾られた。しかし、国の栄華は長くは続かない。国力が衰退すると財宝の売買や略奪が横行。絨毯も例外ではなかった。
1764年にワルシャワのコモンウェルス宮殿に運ばれた絨毯は、金糸をはぎ取られた。溶かして金を抽出するためである。1782年、宮殿は火災で全焼。多くの貴重な歴史文書や財宝が灰になったが、絨毯はたまたま火災の数日前に、市内の修道院に移動していて無事だった。
絨毯は、さらに過酷な運命をたどる。
1795年、ロシア、プロイセン、オーストリア3国による国土分割でポーランドは滅亡。ロシア皇帝のエカチェリーナ2世の命令で、絨毯はサンクトペテルブルクへ強奪されズタズタに裁断、ソファの張り布にされた。(ポーランド語の絨毯「デバン」が、ロシア語でソファなのは偶然)。
20世紀初頭まで、絨毯はサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に保管されていた。ポーランドは第一次世界大戦後の1918年に独立、絨毯も一時的に母国に戻りヴァヴェル城に安置された。
ところが、さらなる悲劇が襲う。1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻。このとき動いたのがヴァヴェル城の学芸員だった。ヒトラーが財宝を略奪することを予見し、侵攻開始のわずか2日後、絨毯を含む国の宝を城から運び出した。
10カ月にわたる命がけの旅が始まった。ヴァヴェル城の下を流れるヴィスワ川を使い、石炭を運ぶ小舟に木箱に入れた絨毯を積んで、ドイツ軍の空爆を避けながら川を下った。ポーランドが陥落する直前に国境を越え、ルーマニア経由でフランスにたどり着いた。
やがてフランスもドイツに降伏。すると学芸員は、なんとイギリス経由でカナダへ運ぶ計画を実行、イギリスの客船に絨毯を積み込んだ。大西洋はドイツの潜水艦が潜んでおり、危険な旅だったがそれも突破。1940年7月、カナダのオタワに到着した。地球の裏側に到達する壮大な脱出行だった。
戦後、カナダは絨毯を返却する意志がなく隠蔽した。しかし、次第に「ポーランド国民に宝を返すべきだ」との世論が高まった。こうして現存する137枚の絨毯がヴァヴェル城に戻ってきた。1961年のことである。
ときにロシアに引き裂かれ、ときに小舟の甲板の下や農民の荷車に積まれ、水に浸かりカビも生えた絨毯。いまは修復作業を終え、美しく静かにヴァヴェル城にたたずんでいる。
いつでも元気 2026.11 No.420
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